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カイロのタアアトハルブ周辺には、こんなコロニアルスタイルの古いビルがたくさん残っている。しかしいつも上を見て歩いているわけにはいかない。つまずいたり車に轢かれそうになったりするからである。
9月4日(月)
大都会、カイロ
午前六時半に、エジプト航空MS692便は無事にカイロの国際空港に到着した。
タラップを降りてバスに乗って入国審査へ。順番を待つ列に並ぶ。
ようやく我々の順番が来ると、係員が言う。
「ビザは?」
「ありません」
「あっちで印紙を買ってこい」
そして我々は、隣のブースに設けられた銀行のカウンターに行く。
「印紙をください」
「ひとり15ドルだ」
業務が始まったばかりで、札束を数えるのに忙しい男が、ほとんどなげやりな調子で言う。金を払うと、二枚ずつ印紙をよこした。
もう一度、入官の列に並び直す。
我々の前には中年の女が並んでいる。並んでいるというのか、その前に並んでいる人々がどんどん進んでいっても、その女は無関係な様子でまったく詰めていかないのだ。足元からずいぶん離れたところに、まるで後ろから追い抜こうとする者を拒むかのように、バッグがひとつポツンと置いてある。
並んでいるのかいないのか、わからないので、
「前に詰めないんですか?」
と私が身振りで尋ねると、女は不機嫌そうな顔をして私を睨みつけ、なげやりにバッグを前に放り投げた。
態度の悪い女だ。
アラブ人の中年女とはほとんど接したことがないのでよくわからないのだが、案外こういうふてぶてしいのが多いのかもしれない。
そして我々の順番が回ってきた。
印紙と一緒にパスポートを差し出すと、係員は面倒くさそうに突っ返してくる。
「印紙をパスポートに貼れ」
というのだ。
自分でするのかよ。そんなこと説明してくれないとわからないだろう。
我々は憮然として、印紙の裏を舐めてパスポートに張り付けた。
そんなことをするのは、ここの国が初めてである。
それにしても観光で成り立っているはずのこの国なのに、観光客の利便性をまったく考えていないというのは、いったいどうなっているのだろう。
お客さんを迎えいれるという意識が欠落しているのではないだろうか。
このあと我々はATMを探して右往左往し、結局見つからず、今度は銀行を探して右往左往するのだが、そういう体たらくなのである。
そしていったん空港を出て、市内に向かうタクシーやバスを探すことになると、そこにいかなるサインも標識も見あたらないのである。
いや、あったかもしれないけれど、我々の目にはつかなかった。少なくともバンコクの空港のように、旅行者に対してきわめて親切に、わかりやすく対応しようという高い意識は感じられない。
これだけの観光立国であるにもかかわらず、タチの悪いタクシーの運転手やホテルの客引きを、いくらでものさばらせていること自体がおかしいのである。
思うにこの国は、黙っていても観光客が来ると信じているのではないだろうか。
確かに今後も、新しい世代の観光客が次々とやってくることは間違いないのである。なぜなら世界中のすべての人々が、歴史の授業によって、この国に存在する世界最古の巨大モニュメントについての知識を得るからである。
テロさえ抑止していれば、観光客は間違いなくやってくるのだ。
その傲慢が、彼らの観光客に対する不遜な態度になって現れていると言えるだろう。
例えば私が持っている英文のガイドブックにはこう書いてある。
「カイロの政府観光局は、スタッフにまったくやる気がないので、行っても意味がない」
客はいくらでも来るのだから、こちらから積極的に情報を提供する必要もあるまい。なにしろ客はいくらでも来るのだから。
エジプトという国は、そういう国なのだろう。
到着早々、うんざりするような気分になった。
預け荷物を引き上げ、通関も問題なく通過して、次に両替であるが、上述したように銀行が見つからないのである。
ようやく見つけた二階の銀行は閉まっているのか、係員が、
「あっちの銀行に行け」
という。彼が指し示したのは、我々が通過した通関の内側にあった銀行の支店であった。
そんなところに今から戻れるわけがないのである。
そんなことを知っているのか知らないのか、この男は無理なことを言う。
仕方がないのでインフォメーションカウンターに行ってみる。
係員の太った若い男性は、まだよく事情を知らないのか、ATMの場所を聞かれても困った顔をしている。上司の、これまた太った中年女性は、脇の公衆電話で私用電話をかけていて、なかなか戻ってこない。
ようやく戻ってきた女性に、ATMの場所を聞き出して、そっちの到着ゲートにえっちらおっちら歩いて向かう。
途中のゲート前には、朝の七時だというのにタクシーのドライバーだの客引きだのがうようよしていて、しつこく声をかけてくる。もううんざりである。
そしてようやく教えてもらった到着ゲートまで辿り着き、うまい具合にゲートのすぐ脇にATMを発見したのである。
喜び勇んで駆け寄ってみると、黒い画面に表示が出ている。
「ホストコンピューターがダウンしています」
おお。エジプトよ。ファラオの国よ。
こんなことでいいのですか。
こんなことでは、いつか誰もファラオを見に来なくなりますよ。
あなたの子孫が飢え死にしてしまってもよいのですか?
なんとか彼らの根性を叩き直してくださいませ。
結局、死ぬ思いをしてようやく見つけた銀行の支店で、虎の子の100ドル札を両替して、もうなにもかも面倒くさくなったので、適当なタクシーをつかまえて乗り込んだ。
エジプトの運転が、これがまた聞きしにまさるほど手荒であり、何度か真剣に接触事故を覚悟したのだが、ファラオのおかげか、なんとか無事に安宿が集中するタラアトハルブ広場まで到着したのであった。
運転手のオヤジは、私が「もっとゆっくり運転してくれ」と懇願すると、こう言ったものである。
「ここじゃあ、ゆっくり運転した方が危ねえんだよ!」
オススメといわれている「ルナホテル」は人気ホテルだけに、バストイレ、エアコン付の150ポンド(3000円)の部屋以外は満室ということで、次に行った「リアリホテル」  も満室。そして仕方がなく、途中で見つけた「グレシャムホテル」に投宿する。一泊90ポンドを前払いを条件に80ポンド(1600円)に負けてもらう。
部屋はアンティークで雰囲気はなかなかよいが、少々カビ臭い。
この「カビ臭い」というのが、要するにエジプトを象徴する匂いなのではないかと私は思う。
築百年は余裕で経過している古びたホテル、旧式の壊れかかったエレベーター、人類史上例のないほど長い歴史、博物館に安置される無数のミイラ。
エジプトの古色蒼然とした印象が、このカビ臭い匂いにそのまま表されているような気がするのであった。
部屋に案内されて、そのまま倒れ込むように寝た。
朝九時であった。
しかし。
なんだかかゆい。最初は足の指先がかゆくなり、次に右手の指先がかゆくなった。
これはもしかして、と思っていると、今度は左の二の腕がかゆい。時間の経過とともに、そのかゆみのポイントは次々に増えていく。
間違いなかった。
このベッドには虫がいる。
レトロな味わい深い部屋だったが、虫がいるので「0点」。
私は眠い目をこすりながらむっくりと起きた。
不愉快ではち切れそうなほどに顔が怒張していた。
フロントに行って、殺虫剤を借りてきた。そしてベッドのシーツを引っぱがした。薄汚れたマットレスが顔を出した。
私はその汚いマットレスに、まんべんなく殺虫剤をスプレーした。
そして元通りにシーツを敷き直して、ついでに便所に行った。
そして戻ってくると、小指の先ほどの大きさの、ゾウムシのようでもっと醜悪な、もしかしたら南京虫のようなのがモゾモゾと這いだしてきて、シーツの上をよたよたと這っているのである。私は嫁のタバコに添えられているライターを取り出して、そいつを焼き殺した。
そして今度こそ熟睡してやるという意気込みとともに再びベッドに倒れ込んだのであった。
それから何時間経ったかはわからないが、殺虫剤の薬効が薄れていくとともに、虫たちの活動も徐々に復活していき、さらに何カ所か刺されて、そのたびに私はほとんど夢うつつの状態で、虫さされをベタベタと塗ることを繰り返すのであった。
午後になって起きてから部屋を替えてもらったのは言うまでもない。
死んだように眠って、ようやく起きたのは午後の三時半。
嫁は相変わらずぐーすか寝ているので、ひとりで散歩に出かけた。
かつて私が泊まったオックスフォードペンションは、うろ覚えではタハリール広場からタラアトハルブ広場に歩いていく途中にあったはずであった。
しかしそのあたりをウロウロしてみても、それらしい古くてボロい建物はない。というよりも、おそらく改装してしまって、小ぎれいなブティックと軽食スタンドが並んでいるだけで、昔の面影がまったくつかめない。
エジプトは、私が訪ねた十五年前と比べるとずいぶんあか抜けた気がする。
当時はもっと町全体がくすんだような感じだった。
ナセルの頃の社会主義の色合いが、今よりももっと濃く残っていたせいなのかもしれない。
今では様々な商品がカラフルに陳列されていて、町が華やかである。
イエメンはもっと田舎じみていたし、店先に並んでいる商品も派手なものは少なかった。いや、女性の「室内用の」衣類なんかは華美なものが多かったけれど、なんというか全体に暗い感じがするのだ。
それはあの国が電力不足で、ウインドウが美しくライトアップされていないせいなのかもしれない。あるいは街を歩いている人々が圧倒的に男性であり、女性は真っ黒いチャドルに包まれているので、町全体が薄暗く、色あせて見えたのかもしれない。
エジプトの女性はスカーフで髪を包んではいるものの、そのスカーフはカラフルであり、靴も洋服も、まったく現代的なファッションセンスなのである。
そしておそらく人口の一割を占めるといわれるキリスト教徒の女性は、そのスカーフすらまとわないのだった。
そしてそんな開放的な女性と手をつないで歩いている男性にはヒゲがない。
やはり女性の社会進出と男性のヒゲの有無というのは、大いに関連がありそうだ。
その男達もGパンにTシャツであり、イエメン人のようにソマタを頭に巻いて、アラブ服を着ている男は皆無なのである。
しかしそんな、ほとんどヨーロッパの白人と区別がつかないような人々が闊歩している街角に、まるで忘却されつつある宗教の、かつての威厳を誇示するかのように、背の高いミナレットを頂いたモスクが、あちこちに顔を出すのである。
そしてその内部では、多くの人々が東のメッカに向かって額を床にこすりつけてサラート(礼拝)を捧げている。
エジプトなどの、極端に貧富の差が際だってしまった国では、下層階級の人々を中心にイスラム原理主義が密かに広まるのだという。
西洋と見まごうばかりの町並みと、乳房をブルブルと揺らしながら歩いている若い女たちと、それを連れて歩く、ちゃらちゃらした若い男達。
彼らを苦々しく感じているのは、老人達に限らないだろう。
彼ら西洋化された人々を憎悪する、おそらく下層階級の一部の敬虔な人々が、原理主義の  温床となっているのである。
それが、表面上は自由主義を謳歌する平和な社会に、どことなく暗い影を投げかけているようにも思えてくる。ここ数年で連続したシナイ半島のリゾート地での自爆テロが、それを暗示しているのである。
それにしても街を歩く若い連中には、どことなく軽薄な感じがするのである。
イエメン人の、地味で素朴だけれど、力強くアラブの矜持を主張する人々の方を、私は好ましく感じる。近代的な大都会の、着飾った若者達が闊歩する町並みは、私にとっては居心地がよくないのであった。
こういう「地中海的な華やかさ」ともいうべき開放的で享楽的な街の明るさは、間違いなく西洋文化を全面的に受け容れた結果なのであり、これを拒絶したイエメンは、禁欲的で閉鎖的で、物資も電力も不足して街全体が暗い。
その薄暗さは、パキスタンやインドにも共通するアジア的な貧困の象徴のようにも思える。
つまり「アジア」はパキスタンまでで終わるのではない。
遠くインド洋を越えたアラビア半島南端まで、「アジア」は広がっているのである。
逆に「西洋」は、イランを東端にして、トルコ、レバノン、イスラエル、エジプトと、地中海岸に沿っているのだろう。
ネットカフェに寄ってメールチェックをして、スーパーで殺虫剤と飲み物、酒屋でワインを一本を買ってホテルに戻る。
上述のように部屋を替えてもらい、ひと休みしてから待望の酒飲みに出かける。
さっきアタリをつけておいたレストラン「カフェ・リチェ」に行ってみた。
ビールを注文する。
出てきたのは「サッカラビール」というエジプトの国産ビールである。緑色のボトルがハ  イネケンっぽい。
一気に飲む。
「……」
しばらく言葉が出ない。
しかしこれも十数年前の話だが、こんなオシャレなビールは当時はなかった。
確か茶色い大瓶で、生ぬるくてまずかった記憶がある。
オックスフォードの受付のところに、薄汚い淀んだ水の中につけてあるのを一本引っこ抜いて持ってくるのだった。
他に「ルクソールビール」と「ステラビール」という、いずれも国産ビールがあり、味はまずまずで十分おいしく飲める逸品であった。
つまみにはサラダを注文。生野菜を食べるのも西洋文化という感じだ。それと便所の便器が和式から様式になった。しゃがみ式の便器というものを見ないのである。
ほどよく酔っぱらってホテルに戻り、パン屋であまりにうまそうだったので買っておいたクロワッサンを食べながらワインを飲む。
クロワッサンは、想像以上においしくなかった。
もっとバターを加えるべきなのに、それをケチったかなという感じの味で、水っぽい味なのである。考えてみればイエメンのパンも同じような感じで、本来のパンを水で薄めたような味気なさなのである。
このクロワッサンは、よくも悪くもエジプト人を象徴しているような気がした。
うわべだけは取り繕っているけれど、中身がついてきていないという感じがエジプト人の印象によく似ているのである。
例えば、あの立派なカイロの国際空港。
うわものだけは壮大だけれど、肝心のサービスはまったくダメ。
また道路は立派に整備されているけれど、走っているドライバーのマナーは最悪である。歩行者がいても、まるでブレーキをかけることを惜しむかのように、絶対に停まろうとしない。エジプト人の運転マナーは世界でも最悪の部類だろうと思う。
またちょっと意味合いは違うけれど、外見や服装はまったく西洋人のようだが、中身はイスラム教徒であり、モスクで礼拝している人々がちゃんと存在している。
国産ワインはあっても、ちゃんとボルドーのシャトーの技術協力がある。ミネ水も国産のようでドイツのビッテルと提携していたりする。
借り物ばかりなのである。
おそらく自前の産業を育てる前に、外国の資本がごっそり入ってきてしまって、もはやどうしようもないのかもしれない。あるいはネパールなんかと同じく、そういう外資とべったり癒着した官僚達が国産の工業の成長を望んでいないのかもしれない。
この国には幸いなことに、この国の人たちの先祖が生み出した、数多くの偉大な建造物が残されていて、そのおかげで莫大な外貨収入が得られるので、国民が出稼ぎに行くこともなく、十分に財政が成り立っているのだろう。
それとアラブ諸国の中でいち早く「西洋に寝返った」おかげで、西側からの対外援助も積  極的にもらえるのに違いない。
まるでエジプト人のように、装いは本物っぽいが、中身はいまいちのクロワッサン。エジプトのパンは、概してあまりおいしくない。
そんなことを考えてみると、歴史上、侵略に侵略を重ねられてきたこの国のしたたかさのようなものを感じずにはいられないのであった。
インド人とエジプト人は、どことなく似ているという、旅行者の指摘は多いと思う。
この国の人々には、インド人と同じ気質……抜け目のなさ、平気でウソをつく、商人的拝金主義などという、日本人からすると好ましからざる性質を備えている人が多い。それは常に被征服民族であったこの国の人々の処世術に由来するのではないだろうか。
歴史学者の宮崎市定氏によると、エジプトは歴史上、常に被征服民族なのであるという。古くはアッシリアに支配され、ペルシア、ローマに支配され、イスラムのアラブ帝国に組み込まれ、オスマントルコの属領となり、英仏の勢力争いに巻き込まれて、結局はイギリスの保護国となった。
エジプト人は、おそらくイギリスが嫌いなんだろうと思う。スエズ運河をほとんど詐欺のようにして収奪したイギリスが許せないのだ。
だから至るところでフランス語を併記し、しばしば英語に優先させて使用していることもある。
エジプト人というのは、もともとハム語族という、北アフリカ一帯で話されていた言葉を話す人々であり、遊牧民族であるアラブ人とは違う農耕民族なのであった。
つまり遊牧民族の収奪に、常に晒され続けてきた人々なのである。
彼らは支配者が次々と入れ替わっても、肥沃なナイル川流域にしがみついて生きてきた人たちなのであった。
それは常に「強い者に味方してきた」ことを意味するのではだろうか。
ナポレオンの遠征以降、いち早く西洋化し、中東戦争では真っ先にイスラエルを認めたこの国の人々は、いまだにアラブの人々には評判が悪いようだ。
イエメン人のアミン氏が、エジプトのことを好ましくない人々だと考えているのは、一種のひがみもあるのだろうが、そういう節操のなさというか、ある種の狡猾さを批判して言っていたのだろう。
しかし一方で、この人々は純粋なアラブ人ではなく、アラブ人に征服された人々なのだと考えれば、他の非アラブ諸国、イランやトルコと同じように、「アラブの大儀」を無視して、いち早く西洋に寝返ったのも、あながち理由がないわけではないのではないだろうか(イランでは、ホメイニの革命までは、パーレビー国王による強制的な西洋化が行われていたし、トルコも改革の過程で政教分離を強行し、アラビア語を捨てたのである)。
アラブ人というのは、強欲なわりには金勘定には弱くて損をすることが多い人々なのだそうだ。商人気質のユダヤ人やペルシア人に比べると純朴であるともいえるだろう。
政治的にも文化的にも、歴史上イスラム帝国は、結果的に非アラブの人々によって運営されてきたと言っても過言ではない。十字軍を打ち負かした、あのサラディンも、実はクルド人だったという。
たまたまアラブの地域で石油が見つかったからよかったようなものの、あの大砂漠の中で  ナツメヤシでも作って細々と暮らしていたのが、本来のアラブ人の姿なのである。
マホメットを出現させた偉大な民族である彼らと、非アラブの人々との微妙な関係というのは、日本人の間ではあまり知られていないことだろうと思う。
カイロ滞在中に何度か通った「カフェ・リチェ」。歴史のあるレストランだが、値段はさほど高くない。ワインは60ポンド(1200円)で飲める。立地も抜群。オススメのレストランである。
カイロの古い建物には、こんな感じで、らせん階段の中央をエレベーターが昇降する設計になっていることが多い。下を覗くと目もくらむほど高い。しかも頼りなげなロープがユラユラしている。怖いけれど、階段を登るのが面倒なのでつい乗ってしまう。乗ってから後悔する。
9月5日(火)
カイロのエレベーター恐怖物語
カイロの町並みを眺めていると、なんとなくミャンマーのヤンゴンや、ベトナムのサイゴンを思い出す。
とても似ているのである。それは戦前に建築された、重厚なコロニアルスタイルの高層建築が、上の二都市と同じように、いまだに現役で残っていることによるのだろう。しかしそれらのアジアの都市と決定的に違うのは、それらと比べると圧倒的に道幅が狭いのである。
おそらくそれは、この町が建設された年代が、これらの都市よりも古いことに由来するのだろうと思われた。それは同時に、この国が十九世紀前半から徐々に植民地化されていった長い歴史を物語ってもいるのだった。
カイロの古いビルディングには、築100年以上のものがいくらでもあるだろう。
そのエレベーターは恐ろしく古いのである。
我々が泊まっているホテルは五階建ての、これまた相当に古めかしい建物なのだが、極めつけはその中央に他を圧するように備え付けられている、しかも恐ろしいことに、いまだに現役のエレベーターなのである。
そのエレベーターは、「エレベーター」という言葉よりも「昇降機」という言葉の方が、より適切に、そのイメージを伝えられそうな年代ものなのである。
現代のようなステンレスの密室を想像してはいけない。
 それは、その昇降機を取り巻く螺旋階段に対して「むき出し」なのである。上からぶら下がっている頼りなさげなロープも、一見して頑丈そうな鎖もむき出しである。
入口には高さ1.8メートルほどの観音開きの細いドアが取り付けられており、そのドアの錠前には電気が流れる仕組みになっている。きちんと「閉まった」ことが確認されなければ、要するに通電しないので、昇降機が作動しないという、きわめて単純な理屈で安全が確保されている。
我々が初めてそのホテルに投宿した日は、故障していたのか、まったく動く気配がなかった。ホテルは広い床面積の建物の四階を占めているので、そこまで延々と螺旋階段を登らなければならないのであるが、この日になって出かけようとホテルのフロントを出ると、幸か不幸か、ちょうどその昇降機の修理が完了した直後だったのである。
工事夫の男性は、両手を潤滑油で真っ黒にしながらも、満面の笑みを浮かべて、
「お前は運がいいな! ちょうど今、修理が終わったところなのだ。さあ乗れ!」
というような仕草をして、我々を促すのである。
嫁の顔は引きつっていた。私もどちらかというと乗りたくなかった。なぜなら下りだからである。無用な生命の危険は避けたい。
しかし、その場にいる三人の工事夫達に促されると、私は断るわけにはいかなくなってしまったのである。まさか、今まで汗まみれになって修理していた張本人に対して、
「信用できないから乗りたくない」
とは言えないのである。
私は心の中で大いに逡巡しながらも、引きつった笑顔を浮かべながら、ゆっくりと、できるだけ振動を与えないようにしながら、昇降機の床に足を載せた。続いて意を決したように、いくぶん蒼白の顔をした嫁が、これまた可能な限りゆっくりと乗り込んでくる。
それをじりじりしながら見ていた工事夫のひとりが、ほとんど侮蔑の笑いを我々に対して浮かべながら、どかどかと乗り込んできたのである。
昇降機が不規則に揺れた。
やめろ。お前は乗らなくていい。ただでさえ危ないんだ。ひとりでも軽い方が……ああ!
男はかなり思いきり、外側の観音開きの扉を閉めた。
「ガシャン!」
と派手な音がして扉が閉まり、同時に頼りない昇降機の箱がさらに大きく、ゆらゆらと揺れた。
やめろ。静かに。ゆっくり閉めてくれ。さもなければ……。
男はこれに続いて、内扉をやはり思い切りよく閉めた。その瞬間、ガクンと衝撃があり、昇降機がゆっくりと下り始めたのである。
「……」
恐怖の瞬間が続いた。
ようやく足元に注意が向くようになると、さらに恐ろしいことに気がついた。
昇降機の床が、場所によってベコベコとへこむのである。ということは金属かあるいは木製の床が腐食しているということではないのだろうか。
そう考えた瞬間に、昇降機自体の故障に対する恐怖とは別に、床が抜け落ちるのではないかという新たな恐怖が、私の喉元に沸き上がってくるのであった。
私はできるだけ体重移動もひかえ、直立不動の姿勢のまま身体を硬直させ、一刻も早く昇降機が地階に到達することを心の中で願った。
昇降機自体が密閉されているのでもなければ、外側に囲いがあるわけでもないので、階と階との間は丸見えであった。ひとつの階を過ぎると、その間にむき出しの、三十センチほどの床を形成する「コンクリートの堆積」があり、それを過ぎると今度は下の階の天井が現れ、壁が現れてきて、そしてまた床になる。
バンコクの台北ホテルもこんな感じだが、階と階の間隙、つまり上階の床と下階の天井を構成するコンクリートの層が、カイロの建物よりも圧倒的に厚いのである。それは一メートルほどもあるコンクリートの塊であった。しかしこのビルの床(天井)は三十センチほどの堆積でしかないのである。薄いのである。
そうなってくると、この建築物の信頼自体が揺らいできそうになるのだが、いまはそんなことはどうでもいいとして、昇降機はゆっくりと地階を目指して下りていった。
そしてようやく地階の、膨大なホコリが堆積した昇降機の基部が見えてくると、またしても鈍い衝撃があり、昇降機の速度がゆるやかになった。この時は、さすがにこの二メートルほどの高さから落下したとしても、怪我くらいで済むだろうから怖くはなかった。
昇降機は地階の扉にピタリとあわせて動きを停止した。
工事夫の男はまたしても勢いよく扉を開けた。そして、
「どんなもんだい。まったく問題ないだろう!」
と胸を張ったのであった。
確かに問題なかったよ。今回はな。
私は心の中ではそう思ったものの、一応笑顔で礼を言って別れた。
それ以降何度かこの昇降機を利用しているが、故障して立ち往生したり、床が抜けるというようなことは一度もない。
しかしここのホテルをチェックアウトして、あの重い荷物を担いで下りるときには、我々は間違いない階段を利用するだろう。
あの昇降機を全面的に信用することは、どうやら私には無理なようなのだ。
そういうわけで、本日は午後遅くまでホテルにいて、日記を書いたりして過ごす。
若干二日酔いでもあった。
三時過ぎになって、散歩がてらスーパーを探しに出かける。
昨日はタラアトハルブ広場から放射状に広がる道路をしらみつぶしに歩いたのだが、ただひとつ北に向かい道だけは歩いていなかったのである。
断られたルナホテルの向かいにショッピングモールがある。入ってみたが食べ物屋と洋服屋ばかりである。アイスクリームを買って食う。
さらに歩く。
左手にマクドナルド。さっきのショッピングモールにはケンタッキーがあった。アメリカ資本のファストフードは、この国ではそうとう普及しているようだ。
通りでエジプト人はデブが多い。デブで体格のいい人が多いので、相撲取りみたいな男をよく見かけるのである。そういえば確か柔道はエジプトで盛んだったよな。
などと関心しながらも、なんとなく小柄で細かった、まるでインド人のようなイエメン人を思い出す。
対照的である。
イエメンが正統なアラブの血筋だとすると、もともとアラブ人は小柄だったのだろうか。
ここの国の人の体格のよさは白人に通じるのもがある。
やはりアラブとは違う種類の人々なのだろうと思う。
さらに歩く。
大通りを死ぬ思いをして横切る。
エジプトのドライバーは、本当に極悪である。停まらないどことか、スピードも落とさずに突っ込んでくる。そして本当に危ないとわかると、急ブレーキをかけて停まる。
街を歩いていて頻繁に急ブレーキの鋭い音が聞こえるのは、まさにこれだった。
つまりやつらは歩行者に脅しをかけているのである。
「このまま行くんだぞ。引いちゃうぞ」
と脅しをかけて、歩行者に停止を促すのである。それでも渡ろうとする岩のごとき強靱な意志の歩行者に対しては、急ブレーキで応酬する。もはやチキンレースである。
彼らはおそらく、世界でもっともモラルの低いドライバーではないかと思う。
ただ必ずしも、そういう極悪なドライバーだけではないということは、エジプト人ドライバーの名誉にかけて付け加えておかねばなるまい。道を横断しようとして、ドライバーに譲ってもらったことも何度もあるからである。むしろそういう人の方が多いかもしれないくらいなのである。
ただ一方で、上記のような悪質なドライバーと遭遇する確率が、他の国よりも高いことは疑いない事実なのであった。
カイロの路地で発見した「LADA」(ロシアの自動車メーカー)。しかも驚くべきことに新車。新車にしてこのデザインである。ある意味で斬新。
左手に大きな果物市場が見えてきた。
面白そうだから曲がってしばらく歩くと、「スルタンホテル」という看板が見えてきた。
ここにも安ホテルがあるのかと思って、その奥をチラリと覗いたら、なんとあったのだ。
「サファリホテル」が。
かの伝説のカイロの安宿。何年も麻雀をやっているろくでなしの長期旅行者がたまっていたという伝説の安宿である。
私がカイロを訪れた十五年前に、すでにこの宿のウワサを聞いていた。その時は私は「オックスフォードホテル」という別の安宿に泊まっていたのだが、この宿がまたダメな旅行者がたくさん泊まっていて楽しかったのである。
ドミトリーのベッドが並ぶ部屋のさらに奥に「虎の穴」とドアに書かれた日本人専用のようになっている部屋があった。
その部屋に、いかにも長期旅行者という風体のひげもじゃのおじさん達が泊まっていた(実際に住んでいたのかもしれないが)。当時私は弱冠二十歳であったので、彼らの年齢はおそらく現在の私よりも若いと思われる。しかしその、おそらくすでに日本を出て半年や一年は軽く越えているであろう人々と話をするのは、本当に楽しかった。
インドでガンジャ所持で逮捕されて実刑判決を受け、刑務所に護送される寸前に脱出してきたという武勇談や、ダハブで半年もガンジャをやりながら壁に落書きをして遊んでいたという若いヒッピー、あるいはアフリカ帰りの恐ろしく汚い格好をした人。自転車で旅行している人。
ありとあらゆるタイプの日本人が集まっていて、そのひとりひとりが非常に個性的なのだった。
彼らと話をしていることが、私にはエジプトの遺跡を見物して回るよりも楽しく、貴重な経験だったように思う。だから私は、エジプトに来たにもかかわらず、ルクソールも行っていないし、シタデルの大モスクも見ていないのである。
私がこのホテルに泊まった一年前に、この建物でボヤ騒ぎがあったという。階下から煙が広がってきて、ホテル内に充満してパニックになった。
当時たまたま泊まっていた人の話によると、旅行者達は、「虎の穴」のドアを外して、隣の窓に渡しかかけ、脱出したのだそうだ。
ホテルは確か六階だった(実際は七階)。下を覗けば目もくらむような高さなのである。
こちらの建築は天井が高いので、日本の建築ならば十階かそれ以上の高さになるだろう。
そんなことを思い出しながらすり減った階段をえっちらおっちらと登っていった。
嫁は階段を登るのが面倒くさいから嫁は下で待っているという。
宿はボロボロのビルの六階であった。
しかしイギリス式で地階は含まれないので実際は七階である。エレベーターは、もう長いこと動いていないらしい。乗降口にガラクタのような自転車が止まっていた。
最上階に「サファリホテル」があった。
数人の日本人がたむろしていた。
壁には今年の正月のものと思われる「書き初め」が貼ってある。右手の書棚には、この二十年で蓄積されていった漫画を始め、大量の和書が並んでいる。
雰囲気は「大学の部室」という感じだった。
ここのホテルには、私の後輩のOが泊まったという。当時はたまたま、漫画家のさいとう夫婦も泊まっていたという。
楽しそうな雰囲気であるが、今となってはちょっと泊まる気にはなれなかった。
それはそのまま、私が年をとったことを意味しているのだろう。
私には盗難に遭っては困る品物がたくさん付随していた。それらは確かに、十五年前の私にはなかったものである。パソコンもそれに付随する周辺機器も、一台数十万円(たぶん)のデジカメもなかった。
十五年で、私はそれだけ不自由になったと言えるのかもしれない。
十五年前は私はもっともっと身軽であった。
そして前にも書いたように観光をするよりも旅行者と会って話をする方が楽しかった。
今でも楽しいんだけど、そればっかりでは仕事にならないのである。
かつて私には、浪費してもいい時間が無限にあった。しかし今ではその時間が惜しまれる。
読むべき本もたくさんあるし、行ってみたいところもたくさんある。
私は、つまり忙しいのである。
Oの話では、当時この宿を仕切っていた「コバヤシ」という人がいたらしい。「今でもいるかどうか見てきて欲しい」というメールをもらっていたのだった。
さすがに十五年も経ったらいないだろう。
そうは思いながらも、私は半信半疑で、中央の受付テーブルに座っている、長期滞在者らしい男性に、おそるおそる尋ねたのである。
「あの……もしかして「コバヤシ」さん……ですか?」
「……いえ、違いますけど」
「そうですか……もしかして「コバヤシ」さんって泊まっていらっしゃいませんか? ずいぶん前からいた人らしいんですけど……」
男性はちょっと考えるような顔をして答えた。
「ああ。「コバヤシ隊長」ですか? ウワサは聞いたことありますけどねえ。今はもういませんねえ」
「あ、そうですか……そうっすよね。いるわけないっすよね」
私はちょっとホッとした気分になったものだった。
もしいたらどうしようかと思っていたのである。
あれから十五年の間に起きた、私の身辺の激動〜二年間も南米を旅し、帰国して会社員となり、退職してフリーライターとなって、同時に結婚して禁煙してというような様々なこと〜を考え合わせれば、まるで十年一日のごとく、ここで麻雀を打ち続けている男がもしもいるとしたら、なんだか亡霊にでも出会うかのような心持ちだったのである。
それはかつて見たジュゼッペ・トルナトーレ監督の『海の上のピアニスト』のような美しい物語ではないにしても、悲しくも懐かしい、ある種の既視感に似たものを感じたに違いないのである。
解体寸前の船に残ってピアノを弾き続ける天才ピアニストの、人生に対する諦観や一種の悟りのようなものが、彼の中にもあったのかもしれないと思うと、ちょっと残念でもあった。
そんな会話があったあと、
「また来ます」
といって出てきた。
結局、旅行者と話をするのは楽しいんだけど、沈没するのが怖いので、泊まるのはよしておこうかなあと思ったわけなのであった。
遊びに来るだけにしようと心に決めて、サファリホテルをあとにした。
すっかり待たされた嫁が不機嫌そうな顔をして突っ立っていた。
ホテルに戻り、日記を書く。
延々と集中して書いているうちに、ふと気がつくと十時近い。
急いで腹ごしらえに出かける。
しかしタラアトハルブ近辺には安食堂がないのである。
昨日はわりと高いレストランに行ったので、今日は安く済まそうと考えたのだが、ない。
しかも時間も遅いので、さらに見つからない。
うろうろと歩き回って、結局、ようやく一軒サンドイッチ屋を見つけたので、そこに飛び込んで、パンに炒めた挽肉を挟み込んだのを三つほど食べる。ふたりで六つで5ポンド。たったの100円であった。
帰りにあちこちで店を開けているシーシャ屋を覗いてみた。
歩道にイスとテーブルを並べて営業しているので、雰囲気はローマとかパリのカフェテラスのようである。
女性だけの客もかなり多く見られるのである。それらの中年女性も、ほぼ例外なく太っていた。女性が経済活動に積極的に参加することが許されているこの国が、他のアラブ諸国と比べても経済的に発展し、国全体が華やかに見えるのも、当然なのかもしれない。
 市場で野菜を売っているのは、ほとんどすべてが女性であった。ネットカフェや雑貨屋でも見かけた。
ナセルの社会主義路線によって、女性の社会進出が認められるようになったんだろうか。
たまにシーシャを吸うと、タバコを吸い付けていないせいで、頭がフラフラする。
たまにはリラックスした気分を味わおうと思うと、こういうことになる。
イランで吸ったものよりも、いくぶんきつい気がする。味は同じだけれど、イランの方がマイルドのようだ。イエメンで吸ったのはかなり質が悪かった。あの国ではあまりシーシャは一般的ではなかったが、やはりカートのせいなんだろうと嫁と話す。
十一時くらいにホテルに帰る。
夜の「タラアトハルブ広場」。かなり遅い時間まで車の通りは途絶えず、人通りもある。カイロはアフリカ大陸で最も大きな町だというけれども、治安は非常によい(しつこいホテルの客引きは別としてだが……)。
9月6日(水)
無事に届いた外付けHD
本日は「宿替え」である。
ここのホテルは雰囲気は申し分ないのだが、高いのと虫がいるのとで引っ越すことにした。
実は昨日、アタリをつけて予約をしておいた近くの「スイスペンション」に引っ越すこと  にしたのだった。
前日に宿のスタッフが話しかけてきた。
「明日チェックアウトして、どこに行くんだ。ルクソールか? 列車のチケットはここでも売ってるんだぞ。ツアーの手配もするぞ。どうだ?」
「いや、まあ適当にね。ははは」
こういう面倒な宿は、できれば避けたいというのもあった。
「スイスペンション」も、名前は聞いたことがあった。だから十五年前にはすでに営業していたはずの、カイロでは老舗の安宿である。
ビクトリーノックスみたいな看板がわかりやすい。
ここも古いビルの六階(実質七階)である。そのさらに上が「ダハブホテル」という日本のガイドブックにも紹介されている安宿になっている。
その下には「ビエンナホテル」というのがあって、ここも見せてもらったら、とてもきれいに改装していて、部屋も大変美しかった。宿代は風呂トイレ別で一泊65ポンド(1300円)である。スイスの方はややくたびれているが、風呂トイレ付きで50ポンド(1000円)であった。
サファリホテルは昇降機が壊れていたが、ここのビルはまだ健在である。しかしそれも「どうにかこうにか」という感じで、いつなんどき、クリティカルな問題が発生するとも限らないとようなくたびれ具合なのであった。
我々は、この昇降機が徐々に高度をあげていくに従って口数が少なくなり、ついには身体全体で、昇降機がたてる振動の一挙手一投足を敏感に察知し、そして目的の階に停まる瞬間に必ず発生する「ガタン!」という激しい振動に、肝を冷やすのであった。そして先を争うように扉を開けて外に逃げ出すのである。
ある日、ついに我々はこの昇降機の秘密を知ってしまった。
いつものように身体をこわばらせながら乗っているときに、私はなにげなく背後を振り向いたのである。前方の観音扉と左右はガラス張りになっていて、背後はニス塗りの古びた木枠と木板があるばかりである。
その木枠の一番上の部分に、これまた恐ろしく古い真鍮の、製造証明板が貼ってあったのである。私はすこしく目をこらして見てみた。「SCHINDLER SUISS」と読めた。
へえ。スイス製のエレベーターなのか。
そう思って、その下にある四ケタの数字に目が留まったのである。
「1974」
そこにはそう書いてあった。
 西暦1974年か?
真鍮の製造表には、確かに「1974」と書いてあった気がしたが……しかし、よく見ると、そこには!!!
ということはこの昇降機はおよそ三十年前に製造されたものだということになる。
三十年前というと、古くはあるが、それにしてもこれほど時代がかった年代物ではないだろう。アンティーク調に作ったものなのだろうか。
……待てよ。
私はそこでもう一度、その数字をよく見直したのである。
かすれかかったその真鍮の板は、数字がなかなか読みとれない。私は伸び上がって、よく目を凝らして見た。
そしてついにその数字が間違いであることが判明した。
なんとその「9」の字は、実際には「8」であり、つまりこの昇降機は、「1874年製造」の昇降機だったのである。
私はその場に硬直したまま、無意識に、手近にあるなにか掴めるものを探した。もしも落下したときに、なにかに捕まっていないと危ないと思ったのである。
今だに老体にむち打って現役で活躍し続ける130年前の昇降機。
その130年間の間に、致命的な事故は起こったことがないのだろうか。過積載でローブがぶち切れたり、あるいはメンテナンスの不備から錆び付いた器具が破損して、落下したりする事故は起こったことがないのだろうか。
もちろんホテルの従業員にそんなことを尋ねるわけにはいかないが。考えてみれば、つい最近、日本でエレベーター事故が起こり、高校生が挟まれて死亡したのは、あれは確か同じくスイスのシンドラー社製ではなかっただろうか。
くわばらくわばら。
スイスペンションは快適であった。
部屋は風通しがよくて、ドアを開けておくと、気持ちのよい風が通り抜けていく。建物の裏手にある部屋なので、表通りの喧噪からも遠い。
スタッフも押しつけがましいツアー斡旋もなくて、とても友好的であった。
それに共用の冷蔵庫があるので、果物を買ってきて冷やせる。
他に泊まり客も少なくて静かである。
おそらく某著名な英文ガイドブックに名前が載っていないためではないか思われる。
なぜならこのガイドブックの冒頭に紹介されていたふたつの宿は、いずれもほぼ満室だったのである。
ガイドブックの影響が強すぎるというのも弊害があるよな。ま、あてにしてるのはこっちも同じなんだけどさ。
ガイドブックに紹介されないだけで、客の入りがガクンと落ちるというのでは、ホテルの方が、ちょっとかわいそうな気がする。
本日は、郵便物の受け取りに、中央郵便局に出かける。
タアアトハルブ広場から延々と歩く。
カイロは巨大である。どこまで行っても人ごみと喧噪は尽きることがない。大混雑と大渋  滞である。特に郵便局で、
「担当者が六時に帰ってくるから、その頃にまた来てくれ」
と言われてから、暇つぶしにその先のムスリム街に行った途中がすごかった。
平日なのにすごい人出なのだ。
そのあたりが電気屋や携帯電話の店が並んでるせいだったのかもしれない。歩道から人があふれて車道を歩くので、今度は車が渋滞し始める。クラクションが鳴る。急ブレーキの音。不快指数が一気に上昇する。
しかも一日で一番暑い時間帯である。すでに涼しいとはいっても、日なたを歩いていると日差しが強く汗ばんでくる。不快である。
無言で車に轢かれそうになりながら往来を横切り、黙々と歩いていると、ようやくマドラセが見えてきた。イスラム神学校である。
このあたりのモスクは数百もあり、それらはひっくるめて世界遺産に登録されているとい  う。
それぞれのモスクが個性的である。
特にミナレットの形状、装飾がそれぞれに違い、まるで美を競うように林立している様は、ファーティマ朝以来、数百年もイスラム帝国の首都であった、この町の歴史を思い起こさせるのに十分だった。
それにしてもイランのあの美しいターコイズブルーのモスクと比べると、色彩的には劣るものの、その精緻な造形には心打たれるものがある。恐ろしく繊細な彫刻を、壁といわず屋根といわず、至るところに施している。おおむね十三世紀から十五世紀くらいの建築なのだが、当時は大航海時代前の、イスラム帝国が東西交易でもっとも輝いていた時代なのであった。
悪くいえば、時の支配者がカネに飽かせて、次々とモスクを建造していった時代なのだろう。
 ぐるりと一周して、またシーシャバーでひと休みする。
このあたりはカイロでも有数の観光ポイントなので、たくさんの観光客がいる。日本人の団体も見かけた。
土産物屋のエジプト人もしきりに日本語で声をかけてくる。
確か十五年前にもここには来たはずだが、日本語で話しかけられたことなんてなかったように思う。
当時すでに日本人の海外旅行は珍しくもない時代だったのだけれど、それでもまだまだ、今のように世界中で「金持ち」と認知された存在ではなかったのだろう。
「金持ち」といえば西洋人と相場が決まっていた時代だったのだ。
エスファハンでもそうだったが、いわゆる「日本語使い」と呼ばれる現地人をよく見かけるようになったのは、つい最近のことだろう。少なくとも十五年前にはそんな人はひとりもいなかった(はずだ)。
言うまでもないけれど、日本語を話すことで商売が有利になるから、彼らは日本語を勉強するのである。放っておいても。
ということは、日本人旅行者をどんどん外国に行かせることが、そのまま日本語の普及に役立つということであり、ということは政府が金を出して外国人留学生を招待して勉強させるよりも、よっぽど効果的なのではないだろうかということにはならないだろうか。
私はミャンマーのヤンゴンで、Gダイの元編集者T氏に教えてもらった土産物屋の客引きの少年に会ったのだが、彼は、おそらくまともに学校にも行っていないにもかかわらず、外国人が望めるところのレベルでは、ほぼ完璧な日本語を操った。
彼は驚くべきことに「猿も木から落ちる」ということわざまで知っていたのだ。言うまでもなく商売になるからこそ、これほどの日本語に習熟できたのである。
 彼の勧める土産物は買わなかったが、彼の日本語力には素直に脱帽した私であった。
ということで国際交流基金は、日本人旅行者に補助金を出すべきである(冗談です)。
六時近くに郵便局に戻ると、滞りなく手続きをしてくれて、五分後には無事に郵便物を受け取った。
内容物は「ロジテックの外付けHD80GB」「納豆汁」「爪切り」等である。
このうち爪切りはなんでか。
イランの爪切りがあまりにダメだからである。
刃がダメなせいか、切った爪の先が布に引っかかるほどにささくれ立つのである。
こういう精密機器ではない分野でこそ、日本の製品がいかに優れているかを、旅行に行くと理解できるのである。ちなみに前に持ってきていた爪切りは、エスファハンに行く途中のバスで荷物を開けられたときに、誤って落ちたものと思われる。
ホテルに帰る途中に、もう一度サファリホテルに寄ってみた。
余っている本の寄付と、ガイドブックの交換をお願いしに行ったのであった。
宿の日本人のみなさんは、とても好意的にガイドブックを交換してくださった。
歩き方イラン編→歩き方エジプト編とシリア・ヨルダン編
有り難い。
やっぱり具体的な予備知識を得るには、ロンプラでは不足である。特に考古学博物館に行く前に熟読したい内容がいっぱい詰まっているのであった。
いずれ酒でも持ってお邪魔することを約束しておいとまする。
夕食は近くの中華料理店「北京」にて、麻婆豆腐とエビチャーハンとタンメンと蒸しワンタン。ビール二本で113ポンド。チップを7ポンドでおよそ2400円。
大変満足した。
エジプトは他の国と比べて、撮影した写真点数がずいぶん少ないのだが、それは間違いなく、この国が写真撮影を禁止している地域や場所がいかに多いかを物語っているだろう。「写真は撮らないで、写真集を買いなさい」という暗黙のメッセージが込められているように思えてならない。
9月7日(木)
エジプト考古学博物館
本日は昼に起きてゆっくり支度をして、二時くらいから、近くの考古学博物館の見物に出かける。
この知名度では世界屈指の博物館には、十万点以上の展示物が収蔵されているという。
かのツタンカーメンのデスマスクと副葬品が、その目玉であることは言うまでもないが、日本のガイドブックによると、あまりに展示品が多くて収まりきらず、ほとんど物置のようになっているという。
さて、入館前にはまるで国際空港並みの非常に厳重な荷物検査がある。エックス線で二回も荷物を検査された。カメラは厳禁。
チケットは40ポンドでおよそ800円。国立博物館のわりには高いよな。しかしこの国はこの博物館とピラミッドとルクソールの収益で成り立っているのだろうから仕方がないか。
それにしても、ここでもなんだか観光客に対する不親切が目立つのである。
荷物チェックの軍人は、友達がやってくるとそいつと話して、なかなか列が進まなかったり、入館するのにカメラは禁止されているのに、その表示がまったくなくて、いったん「モギリ」を出てカメラを預けに戻らなければならなかったりと、まったく不親切なのである。
しかも職員に尋ねても無視しやがる。
これだけ大量の観光客が出たり入ったりしているのに、そういうことになんの便宜も図らないのはおかしい。
我々からの観光収入で成り立っている国であるはずなのにである。
エジプト人には大いに反省してもらいたい。
館内は確かに物置のようであった。
一応年代順に展示されてはいるものの、かなり雑然としている。まったくなんの説明表記もない展示物もかなりある。
比較的有名なのは、きちんとガラスケースに入って英語と仏語で説明してある。しかしこういうところの英語表記って、辞書に載ってない単語が多いんだよね。
なんでだろうか。スペルが間違っているのだろうか。それとも学術用語だから難解すぎて載ってないのか?
ほとんどの展示物は石灰岩や花崗岩の彫像や石版だったりで、そのままむき出しで展示してある。一応、壁には「展示物に触るな」と書いてはあるものの、実際は触りたい放題で、だから4000年以上昔に彫られたヒエログリフに直接タッチできるのである。
これはすばらしい。
初期のころにはまるっきり絵だったものが、時代が下るに従って簡略化&記号化されていくのがよくわかる。
古代王朝のころには、石灰質の岩を切り出した、表面の粗い作品が多かったのが、中王朝から新王朝になってくると、研磨技術が進歩したのか、花崗岩のそうとう固い石をつるつるに磨いた美しい塑像が増えてくる。顔つきも最初は全体に横に長い人が多いのである。どことなく「北京原人」に似ている。それがアマルナの頃になると、とてもスマートな顔つきになっている。全体に非常にリアリズムがあって、ペルシャのペルセポリスの彫刻と比べるとずいぶん趣が違う。
ギリシャ文明に先行するミケーネ文明というのは、エジプトの文明にかなり影響を受けたそうだが、このリアリズムがギリシャ彫刻の、あの躍動的で写実的な作品に受け継がれたのかもしれないと思った。
かなり後期、プトレマイオス期になると、グレコローマン風の作品も多くなり、ヒゲもじゃでからだの曲線を強調するのが増えてくる。まるでギリシャ彫刻である。
ここまで来るともう違いがわからない。
面白いのは、古代エジプトでは太陽神ラーというのが一番崇められた神様だそうで、中期から後期になると、あっちこっちにこの神様が描かれている。
砂漠の国であるにもかかわらず太陽を崇めるというのは、一見して不可解なのだが、彼らがナイル河畔に生活する農耕民族であったことを考えると当然なのである。
日本も含めて、世界中の農耕民族は太陽を恵みと考えるのである。それは穀物がお天道様によって育つということに由来する信仰なのである。
このような思想は砂漠を放浪する遊牧民族には決して芽生えなかっただろう。
北インドでも「太陽は呪いである」という言葉がある。それは牧畜を盛んにやってきたアーリアの人々の言葉なのだろう。北インドのあの猛烈な暑さを考えれば、遊牧民族であった彼らにとって、太陽が憎悪の対象以外の何ものでもなかったことは想像に難くないのであった。
ところでカイロのイスラム地区には、すばらしい装飾の出窓があちこちにある。それらは木彫りの出窓で、非常に緻密で精緻な彫刻が施された小型のバルコニーが、あちこちに見られるのである。
それで、こういう装飾を施した出窓というので思い出すのがネパールなのである。
左がカイロのイスラム街で見かけた出窓。右がカトマンズのタメル地区の出窓。緻密な彫刻といい、差し出された形状といい、とても似ている……と思いませんか?
カトマンズやパタンにも、こんな風なのとそっくりの、非常に緻密な綱彫刻が施された出窓があちこちに見られる。現在もそういう風習は残っているようだ。
それでエジプトとネパールは似ているよな、と思っていたら、もうひとつ共通点があった。
「目」である。
カトマンズのスワヤンブナートやポドナートには巨大な目がある。
そしてエジプトのツタンカーメンには「ホルスの目」があるのだ。
「ホルス」は、エジプト王朝時代の天空の神様である。この神聖な「ホルスの目」が魔除けとして、ツタンカーメンの腕輪や首飾りになっている。
おそらくこれが、地中海一帯で信じられている「邪視信仰」の起源なのだろう。
前にも書いたけれど、イランから西側では、邪視を避けるためのガラスの目玉があちこちで売られているのだけれど、これらのほとんどが青を基調としている。
ツタンカーメンの「ホルスの目」も青いラピスラズリで造られているのだった。
その後、展示物に注意しながら見ていると、この「ホルスの目」があっちこっちに見られるのだった。
さらに下った時代の棺桶には、ほとんど必ず彫られたり描かれているし、副葬品の中にもこの「目」を象った飾り物が数多く含まれている。棺桶の外部に配された目玉は、
「これを通して外部で起こるすべての事柄を見るためのもので、同時に参詣者の供物を参詣者と分かち合うためのもの」
なんだそうである。
直接的に「魔除け」については言及されてないものの、「外部を見張る」という意味合いには受け取れそうな文面である。
そして紀元前1400年くらいの「TUYA」という王族の遺跡には、さらに抽象化された、現在の「ガラスの目玉」とまったく同じものが出現するのだ。
今から三千年以上前に、すでに魔除けとして「目玉」が使用されていたわけで、おそらくこれが地中海地方一帯に広がる「邪視信仰」の元祖なのではないだろうか。
ネパールのは「仏陀の目」と言われているそうだ。
「出窓文化」とともに、ネパールの「目」がエジプトの邪視信仰と、なにかしら関連があるのかどうか。機会があったらちょっと調べてみたいと思う。
エジプトで見かけた「目玉」の数々。「目玉胸飾り」、「目玉イヤリング」、そしてさらに象徴化された「目玉ペンダント」(右上)。三段目左は、ルクソール神殿の石版。三段目右はカトマンズの「スワヤンブナート寺院」の「ブッダの目」。……似てるといえば似てるかなあ??
本日はほとんど一階中央だけで終了してしまった。
四時間しか見られなかったということもあるのだが、なにしろ広くて蝟集が膨大すぎるのである。明日また来ることにしよう。
すでに三日間はかけてじっくり見物しようという腹づもりになっているので、まあ想定の範囲内なのであった。
疲れ果ててホテルに戻ってベッドに倒れ込み、しばらく休んでから。、昨日買って冷蔵庫に冷やしておいたマンゴーをたべる。
うまい。
すばらしい。冷えているのでさらに甘味が増して、しかも爽やかである。世界の果物の中でももっともうまい果物であると思う。さすが女王様である。
私はドリアンよりも好きだ。ライチと比べると微妙だが……マンゴーかな。
ドリアン好きの嫁は、
「難しい問題だが、毎日食うならマンゴー。ドリアンにはありがたみがある」
夕食には、サファリホテル周辺の安食堂街まで出かけて、エジプト名物の「コシャリ」を食べた。
コシャリというのは、米とかマカロニとかの上にトマトソースをぶっかけたあけの食べ物である。たいしてうまくもないのだが、エジプトの国民食である。
かつて私は、このコシャリを毎三食ずっと食べ続けていた。
なぜなら安いからである。
今もその安さは変わらず、どんぶりいっぱいで100円もしないのである。
しかし私が食べた頃と比べると、ずいぶんオシャレになっているのであった。
もっとも当時は肉体労働のオヤジのたまり場のような大衆食堂で、時間を惜しんでかきこ  むような食べものだった。
白木屋のおかげで居酒屋がオシャレになっていったように、エジプトでもコシャリが若い女性にも受け容れられるようになってきているのかもしれない。
こう見ると、なかなかうまそうに見えるのだが……。しかしここのコシャリはサファリのノブさんいわく、「まずくて有名」だそうだ。
帰りにビールでも買って帰ろうと酒屋に行ってみたら、なんと休みであった。
本日は木曜日なので、早めに閉めたのあろう。
困った。他に知っている酒屋は、またサファリホテルの方に延々と戻った先なのである。
しかし酒が飲みたい一心で、歩いて戻ると、なんとそこも閉まっていた。
「……」
不機嫌になって無言で歩いて戻る。途中で、この間チラリと見かけた場末の酒場みたいなところがあったのを思い出した。
そこに行ってみるか。
また歩いてタラアトハルブ広場の反対側の方に行ってみる。
しかし。そこも閉まっていたのだった。
これは今日は酒は控えなさいというファラオの神様のご託宣に違いない。
あきらめてホテルに戻り、深夜まで日記を書いて寝た。
寝たのは午前三時過ぎだった。
明日も博物館見物である。
イスラム地区の「フトゥーフ門」の城門。太い角材に鉄板を打ちつけた、すさまじく頑丈なもの。千年前に建てられたというが、いまだに敵を寄せ付けない威圧感を漂わせている。
9月8日(金)
エジプト考古学博物館その二
今日も博物館である。
セキュリティやカメラについては、おおむね手順がわかったので、今回はスムーズに入館。
昨日の続きの古王朝期から、順次見物を始める。
日本の高松塚古墳なんかと同じように、大昔の王様の墓石も極彩色で装飾されていたようだ。それがものによっては非常に鮮明に残っている。ヒエログリフも色を塗ったのを見ると、なにを書いてあったのかがよくわかるのである。
当時の男性は、実はたいがいの人は坊主頭であったようだ。その上に「麗子像」的な、おかっぱ頭の「ヅラ」をかぶるのである。
つまりスフィンクスのあの髪型は、あれはヅラなのである。
中期の頃の彫像に、高さ二メートルもある、二対の男性のものがあって、その説明書きを読むと、両方とも同一人物のもので、片方はヅラをかぶった正装バージョンで、もう片方は同じ男性の坊主頭のバージョンなのであった。
エジプトの大昔の作品には、けっこうこういう庶民的なリアリズムを表現したものが多いのである。
例えば小人症の男性の彫像が残っていたりする。あるいは黒人奴隷の像。名もない村の村長さんの像とかもある。
日本の絵画に文学に残っているのは貴族社会だけで、室町時代くらいまでは、庶民の生活というのは、まったく無視されているものだが、エジプトでは、けっこう下層の人々が表現されているのだ。
今日は金曜日のせいか、昨日よりも観光客が多かった。
観察していると、本当に世界中から観光客が訪れていることがわかる。
英語のガイドがもっとも多いのだが、他にイタリア語、フランス語、スペイン語も聞こえた。よくわからなかったのは、おそらくロシア語のようだ。
そして韓国語。中国語。日本語。
韓国の団体は韓国人のガイドだったが、中国人の団体はエジプト人の女性ガイドだった。中国語を話すエジプト人。さすが観光立国である。
日本語のガイドも、かなり上手な日本語を話していたが、希少なぶん給料もいいのかもしれない。この国では言葉が話せるだけで仕事があるという非常に恵まれた国なのである。
しかし一方で下層の軍人やタクシーの運転手などは、ほとんど英語がわからないし、読めもしない人がけっこういるようだ。
エジプトはサダトの親米政策以降、貧富の差がずいぶん大きくなっているという。
おそらくそれは教育レベルにも跳ね返っているのに違いない。
それにしてもそれぞれの収集品の説明書きを読んでいて思うのは、イランでもそうだったけれど、発掘者がほとんどすべて外国の調査隊によるのである。
イギリス、フランス、ドイツ、スイスとかの、大学や博物館から派遣された調査隊なのである。
それがインディ・ジョーンズの時代のように第一次大戦の頃なら、なんとなく仕方がないような気もするのだが、戦後八十年代くらいになっても、その傾向はあまり変わってないのだ。
自前の調査隊では心許ないのか。それとも外国からの調査隊を受け容れることで、観光客と同じように入域料のようなものをせしめられるからだろうか。
早稲田大学の吉村作治教授が自分で言うには、彼がテレビに出まくるのは、ピラミッドの調査費用を稼ぐためであるという。
つまりそれだけエジプト政府が、よく知らないけど調査料のようなものを、ごっそり要求するのではないだろうか。
ネパールがヒマラヤの山々に完全に依存しているように、この国は過去の遺産に完全に依存している。
エベレスト登頂に必要な費用が、ひとりあたり300万円とか聞いたけれど、おそらく学術調査隊にも、同じように莫大な入場料のようなものがかけられるのではないか。
エジプト政府にとっては、彼らも我々と同じく「観光客」のようなものなのではないだろうか。
そう考えれば、いまだに発掘され続ける貴重な歴史遺産が、すべて外国の調査隊の手によるものだというのも、なんだか納得がいくのである(でも裏を取ってないので偏見かも)。
「カノープス」というのがある。
これは大理石でできた壷が四つセットになった非常に美しいものなのだが、なにを入れるための壷なのかというと、なんとミイラを造るときに取り出した内臓を保管するためのものなのである。
壷のフタには、ガイドブックによると神様の息子達の胸像が施されている。
ツタンカーメンの埋葬品を見るまでもなく、古代エジプトの王様は死後の世界に並々ならぬ関心を持っていたのである。
しかしそれは世界中の古代の権力者に共通することなのだろう。
秦の始皇帝も、不老長寿の妙薬を探すために多数の子供たちを船出させたという「徐福伝説」というのもある。
ツタンカーメンの墓が盗掘を免れたのは、彼のお墓が地味だったからだという。
つまり他の王様達は、もっと派手でゴージャスなお墓を造っていていたわけだ。
だから後世になって、ことごとく盗掘されてしまった。
王家の谷のお墓というのは、ほとんどすべてが盗掘されているわけである。
残っていたのが、たまたま質素で地味だったツタンカーメンのお墓だけだったのだ。
そう考えると、他の盗掘されてしまったお墓は、ツタンカーメンよりも遙かにゴージャスな副葬品が眠っていたはずであり、それらはおそらくバラバラになって、世界中に散らばってしまったんだろう。
また閉館時間ぎりぎりまで見物して、ほぼ一番最後に博物館を退出。
外の庭には、疲れ切った観光客がたくさん座り込んで、容易に立ち上がろうとしないでいる。我々もその中に混ざって、噴水の脇にぐったりと座り込んでしまった。
まったくでかい博物館である。きりがない。
今日は金曜日なので、酒屋は閉まっていると思ったら、なんと開いていた。
昨日のこともあったので、喜んでビールとワインを買い  込む。
エジプト産ワインは侮りがたいほどうまい。だいたい30〜40ポンド(600円〜800円)程度で、かなり質のよいワインが手に入るのである。写真の銘柄は「オマルハイヤーム」。渋味の濃い、見事なフルボディである。
共用冷蔵庫に入れておいて、部屋でぐったりと横になっているうちに一時間ほど寝てしまった。
起きたのは夜の八時頃で、腹が減ったので夕食を買いに出かける。
目の前のハンバーガー屋でサンドイッチと芋とサラダなどを買い込んで、部屋で酒盛り。
寝たのは深夜の三時頃で、それまで飲んでいた。
飲み過ぎである。
カイロの路地のあちこちに、こういう重厚なコロニアル様式の装飾が施されているビルがあり、しかもそれらはほとんど廃墟ビルだったりするのだった。もともとイギリス人の所有だったものがエジプト人に渡り、維持管理もおざなりなまま朽ち果てていくというパターンなのかもしれない。
9月9日(土)
寝坊する
起きたのはなんと午後三時。酒のせいで完全に寝過ごしてしまった。
反省することしきり。同時に二日酔いで二重に反省する。
ということで、本日は休養日にして、洗濯などして過ごす。
最近、肩こりが右肩から左肩に移動したのである。
しばらく左肩が痛くて、寝違えたかと思っていたら、どうやら肩こりらしいのである。
それでなんで今頃、左肩に凝りが移ったのかと考えてみると、ひとつだけ思い当たる理由が見つかった。
最近、キーボードの「D」がの調子が悪いのである。軽く打っただけではダメで、かなり力を入れて打ち込まないと入力したことにならない。「D」を打つには左手の中指を使うのだが、そのたびに中指に非常な力を入れるのだが、ある時その瞬間に、例の凝り固まった肩の筋肉の一部に、ビリッと痺れるような感覚を覚えた。それでこの「D」が、肩こりの原因であることに気がついたのであった。
このキーボードの不調は、実はインドにいた頃に一度、同じ症状になったのだが、放っておいたら治ってしまった。しかし今回はどうも重症らしい。それで力を入れて「D」を打っているうちに、凝りが左肩に移動したらしいのだ。もっとも「移動した」というのは正確な表現ではない。左の肩こりが、より深刻化したと言うべきだろうか。
考えてみれば私の肩こりはすべてこのコンピュータに由来するのであった。
タイピングもそうだし、マウスの微妙な操作でいつも肩が緊張している。
この肩こりから逃れるためには、原稿用紙に鉛筆で書く作業に退化するしか方法がないのだが、それはまず不可能であり、だから私は一生肩こりなのである。
最近、よくラジオを聞いている。
この間、アズハル地区の電気屋で300円で売っていた小型のラジオを買ったのであった。
「MATSOBISHI」という聞いたことのない会社である。
どこ製というのはいっさい書いていないのだが、おそらく中国製だろう。
松下電気とソニーと三菱の合弁会社ではないかという恐ろしく好意的な見方もできるが、もちろんそんなわけはないのである。
「Matsuboshi社製」の小型ラジオ。品質は同じだろうと思ったけれど、テヘランのOさんが出演しているイランのラジオ放送が雑音が多すぎて聞こえないのだった。やはりラジオにも性能って関係あるんですね。
こういう日本製品の「パクリ商品」というのは、アジアから中東にかけてどこでもよく見かけるわけだが、以前の私は日本人として、なんだか損をしたような気分で、あざとい中国人に対する嫌悪と侮蔑のような気分が大きかったのである。
しかし最近、これらの「偽造製品」に対する見方が好意的に変わってきたのだった。
なんでかというと、実際にこれらの製品を買って、愛用しているご家庭がたくさんあることを知ったからだ。
例えばイエメンのヤヒヤさんの家にも、こんな感じのインチキメーカーのテレビがあった。
しかしそれはきちんと動くし、機能はきわめてベーシックではあるけれど、製品としてはちゃんとしたものなのである。
そしてなんと言っても、日本の純正品と比べて破格に安いのだった。
ヤヒヤさんのようなイエメンでも比較的金持ちの家でさえ、テレビを買うとしたら、日本製の純正家電製品は高嶺の花なのである。
彼らにとっては安くてある程度質のよいものなら、中国製でもなんでもかまわないのだ。
そう考えると、日本製品を騙った中国のインチキ家電業者にも、ちゃんと存在理由があるわけだ。
そして彼らが供給する製品を、たとえインチキだと知っていても(知らないかもしれないけど)、購入して、ささやかな贅沢を楽しみたいと願っている慎ましい人々が、間違いなく存在しているのである。
世の中には日本製品を買いたくても買うことができない家庭が、それこそ星の数ほどある。そういう人々に、品質はよくなくても、安い家電製品を供給するということは、それはそれでよいことなのだと、私は考えるようになった。
というわけで我々の愛用している「MATSOBISHI」も、今のところ元気に電波を受信している。同じような製品でソニー製となると値段は簡単に三倍以上になるのだが、我々には「MATSOBISHI」で十分なのであった。
エジプトに来て、なんとなく思うのは、人々の食生活にオリーブが親しんでいるかどうかが、東洋と西洋の境界の決めてのひとつになるような気がすることである。
例えばイランではオリーブはかなり一般的だけれど、パキスタンではまったく見かけないし、その関係は、ここエジプトとルブアルハリ砂漠を挟んだイエメンにも当てはまるのである。
大ざっぱには米食文化とパン食文化とも言えるかもしれないが、この米食には似つかわしくない、そしてどことなく地中海の香りのする食べ物は、アジアにはもっとも不似合いな食材のひとつなのだと思う。
例えば「韓国人とオリーブ」。
似合わないなあ。「オリーブのキムチ」というのも考えづらいしな。
例外的に似合うとしたら、ベトナムのバインミーくらいだろうか。
その意味では、エジプトは完璧にアジア文化から決別して、地中海、ヨーロッパの文化に含まれる。
イエメンにはインドネシアやタイ、マレーシア、シンガポールの製品をよく見かけたものだが、エジプトでは見かけないのである。最近珍しく見つけたので買ってみたインスタントラーメン(シンガポール製)も、ひと袋3ポンド(60円)と、べらぼうに高いのであった。つまり誰もこんなものは食わないのである。
ここまで来ると、「環インド洋経済圏」ともいうべきくくりから外れて、西洋を中心とした「地中海経済圏」に組み込まれているのだろう。
カテドラル内部は、カトリックらしく厳かな雰囲気である。しかも拝観料がタダという、およそエジプトでは考えられないような太っ腹ぶりなのであった。やはりバチカンから多大な援助金が送られているのだろうか……などと穿った考えを起こしてしまってすいません。
9月10日(日)
コプト教会
エジプトの人口の一割はキリスト教徒である。
街を歩いていてスカーフをしていない女性をチラチラと見かけるのは、おそらくキリスト教徒なのだろうと思われる、というのは前に書いたが、そのカイロにあるキリスト教地区に行ってみた。
地下鉄の駅を降りるといきなり教会が目に飛び込んできた。
セント・ジョージ教会というそうだ。
コプト派キリスト教というのは、イスラムが攻めてくるまでのエジプトの主要な宗教だった。つまりエジプト人は、千三百年くらい前まではキリスト教徒だったのだ。
コプト教会というのは、イスラムが広がる昔に、すでに西側のカトリック教会から「異端」とされて迫害されていたそうだ。
こういう宗教上の「内ゲバ」によって、中世のヨーロッパはますます固陋になって、そのぶんイスラム世界が文化の中心になっていくわけである。
教会の雰囲気は、イランのエスファハンで見物したアルメニア教会と似ていて、キリストのフレスコ画が、なんだかまがまがしく見えてくる。
信者たちが、おそらくイスラム教徒から受けた拷問の図がいくつも描かれていて(同じキリスト教徒による異端尋問かもしれないが)、その拷問器具のいくつかが展示されていたり、あるいは岩を掘削した狭くて湿度が高く、ムッとする臭いがこもる穴蔵の中に、フレスコ画が飾ってあったり、とにかくすべてが非常に生々しく、アルメニア教会と同じく一種の不気味さを感じるのであった。
なんでキリスト教徒はこういう穴蔵の中の、狭くて薄暗い不健康なところが好きなんだろうか。
イスラムのモスクの方が、よっぽど健康的で、明るく開放的な印象なのであった。
どういう違いによるものなのだろうか。
イスラム社会でも、同じように信者同士の殺し合いが当然あったし、それはおそらくキリスト教徒同士よりももっと苛烈であったかもしれない。
しかしそこには、なんとなく、からりとした爽やかさがあるのだった。
キリスト教のカタコンベのように墓地に長大な穴蔵を掘って、そこにこもったりするのとは対照的なのであった。
ユダヤ教もそうだけれど、なんというかそういう鬱々と陰にこもった受難の歴史を、ある意味で好むようなところがあるような感じがする。
好むというと語弊がありすぎるな。
そういう迫害の歴史を、誇らしげに喧伝する性癖が強いというべきだろうか。
イスラム教は建前上は聖職者というものを否定している。
だからそれを養成するための修道院もないのである。
もしかしたらそこに、キリスト教の鬱々とした、ある種の不気味な閉鎖性のようなものが育たなかったのかもしれない。
写真撮影は、意外にもOK。
一ポンドずつ寄付して出る。
脇の小さな道を歩いていくと、アメリカン大学の支店らしい本屋(といっても露店だが)があり、エジプト関係の英書を並べていた。教会の屋根にはギリシアの旗が立っていた。
こういうのを見ていると、各国のキリスト教系の団体には、西側からそうとうの援助金が行っているように思える。
例えばレバノンは、長くキリスト教政権が続いていたわけだけれど、この国のGDPはまわりの国と比べて際立って高いのである(レバノンのひとりあたりのGNPはおよそ3500ドル。隣のシリアは1000ドルちょっと。ヨルダンは1500ドル)。
とりたてて産業があるわけでもないこの国が、なぜこんなに金持ちなのかという疑問が生じるのである。
この国の場合、隣国のイスラエルから、かなりの援助が行われているのは間違いないだろう。キリスト教系の政権が続いた方が、イスラエルとしてはありがたいのである。
キリスト教系の宗教団体が、世界中に金をばらまいて信者を増やしていることは、おそらく間違いない。
それと同時に西側諸国も、途上国のキリスト教系の政治団体に資金援助をしていることも確かだろう。
実際にそうやってキリスト教団体が、金で信者を集めているという話も見聞した。
そろそろキリスト教というものについて、少し勉強してみようかという気持ちになってきている。
コプト博物館は三時で閉館だそうで、残念ながら見物できなかった。
ブラブラと歩いて地下鉄駅へ。
途中でミネ水の大瓶を買ったら、なんと五ポンド(100円)もとられた。ホテルの近くの売店で二ポンド以下で売っているのである。
この国はものの値段があってないようなものなのだ。
「外国人を歩く財布だとしか思っていない」
というのは手持ちの英語のガイドブックの言葉である。言葉巧みに、一見親切そうに近寄ってきた男が、当然のようにホテルやツアー会社の客引きに豹変する。
さっきも教会の警備の警察官が、さも親しげに自己紹介してきた。そして握手までして、なんの用事かと思ったら、
「チップをくれ」
私の姉がタイに行ったときに、見ず知らずの男にバクシーシを要求されて、
「あんたがあたしに、なにをしてくれたっていうのよ」
と言って憤慨していたが、まさにその通りなのであった。
この男が私にしてくれたことは、道を教えてくれたことくらいなのである。
「外国人は歩く財布である」というのは、残念ながら観光業に携わる人間以外でも、エジプト人のごく一般的な意識なのかもしれない。
『食事の文明論』(石毛直道 中公新書)読了。
私は著者の愛読者であるので、もう何冊も読んでいるのだが、この本はおそらく中期くらいまでの研究の論旨をまとめたものではないかと思う。
この本でもっとも興味深かったのは、以下の指摘である。
宗教というものは、未発達の社会における、禁欲、清貧を強いることで、人間の欲求を低いままに押さえつけておくための手段であった。
「宗教は物質を潤沢に配分することによって社会的、経済的に解決することが不可能な、物質的に不平等な社会段階において、欲望の水準を低くおさえ、それを精神の問題に昇華させることによって、秩序を維持してきたのである」
こういう宗教の作用を、時の為政者がうまく利用してきたのが、政教未分化の社会の現実なのであった。ルーマニアのチャウセスクの例を挙げるなら、共産主義もこれにあたるんだろう。
つまり貧富の差の激しい不平等な社会でこそ、宗教は力を得るのだ。
一般市民の物質的な欲求が満たさた段階で宗教は無力になる。
現代の日本や他の先進国で宗教に熱心な人が少なくなるのはそういう理由なんだろう。
イスラム教がアフリカや、アメリカの貧しい黒人社会に浸透しているのは、人種差別という問題と同時に、そういう社会的な矛盾にからの逃避という意味もあるのかもしれない。
その昔、マニラの郊外に「スモーキーマウンテン」というところがあった。
周囲数キロという広大なゴミ捨て場に、最下層の人々が掘っ立て小屋をたてて住み始め、ゴミの山がいつの間にか村になったというところなのであった。
そこの山を登っていくと、頂上にポツリと教会があった。
ゴミの山の上に教会があるのだ。
そしてその周囲では、ボロをまとった子供たちが、空きビンや鉄くずを拾い集めているのだった。
そこには、マニラの豪邸に住んで贅沢な暮らしをしている人々から吐き出されたゴミを拾って暮らしている人々の生活があった。
その時に、一緒にそこを訪ねた友人Pと私は、宗教の無力さをしみじみと感じたのであった。
今はそのゴミ山自体が撤去されたというが、フィリピンの貧富の差は、おそらくちっとも変わってはいないのだろうと思う。
そしてひるがえって考えてみると、その光景は、日本人の贅沢な暮らしが世界中の貧困な人々の生活の上に成り立っているのだということの、小さな縮図でもあった。
こういう現実に関して著者は、こう指摘している。
「われわれの豊かな食生活は、地球規模でみれば、国家間の資源の分配の不平等にもとづくもの」であるが、一方で「日本が食料を買わなくなったら、もっと人々が飢えることになる国々がある」わけで、もしも日本が食料を輸入しなくなったら、「それは不況という形で世界経済に波及効果をもたらし、まわりまわって飢えている国がさらに、経済的に追いつめられることになる構造を持っているのである」
結局、日本もアメリカと同じなのであった。
一握りの国が世界中から富をかき集めることで、地球規模で貧富の差が生じると同時に、その消費活動に依存しなければ途上国が生きていけないという経済構造ができあがっている。
アメリカがそのもっとも極端な国として矢面に立って攻撃されているけれど、しかし考えてみれば、そのアメリカと私たちの国が、どれほど違うのだろうか。
あんまり関係ないけれど、オマーンでタオルを買ったのだが、そのタオルがイギリス製であった。いまだにあの国がコットン製品なんて作っていること自体が意外であった。
かつてイギリスは、アメリカで綿を栽培させて、それを輸入して工業綿製品を作り、アフリカに輸出して、黒人奴隷をアメリカに送るという三角貿易をして富を築き上げた国だったわけだが、その英国が、いまだにそんなものを作り続けているという事実に、なんだか亡霊をみたような不気味なものを感じたのであった。
綿製品はことごとく中国製なもんだとすっかり思っていたのだ。
しかしこういうよくわからないことは、あちこちでみられるのだ。
例えばイエメンでは、フランス製のチーズをよく見かけたのだった。チーズなんて国内でいくらでも生産できるだろうに、なぜわざわざ輸入する必要があるのだろうか。
しかし考えてみれば、フランスで大量に製造した工業製チーズの方が、牛や山羊の乳を搾って、これを発酵させ、攪拌して分離してという面倒な作業を経た国産の天然チーズよりも、たとえ輸送費を繰り込んだとしてもはるかに安上がりなのに違いないのだ。
あるいはハチミツも、ドイツ産、ニュージーランド産のハチミツを見かけたのだが、これも同じ理屈なのだろう。
効率の悪い原始的な養蜂でかき集めたハドラマウトのハチミツよりも、機械化された集約農業で製品化されたハチミツの方が圧倒的に安いのである。
かつてインドでは同じような方法で、安いイギリスの綿製品によって地元の綿織り業者がことごとく廃業に追い込まれ、いつしかインドは輸入超過の赤字国家に転落し、イギリスの植民地になっていった。
同じことが現在でも繰り返されているのである。かつての帝国主義的な商品の売り込みが、現在では経済援助と抱き合わせで行われているに過ぎないのだ。
ドイツがカウカバンまでの道路を開通したり、酪農の技術指導をしたりする背後では、ちゃんと自分のところの製品を売り込んでいるのだ。
そうやって、いつしかイエメンの国内産業はことごとく廃業に追い込まれ、外国からの援助なしでは生きていけない西アフリカ諸国のように成り下がっていくのだろう。
アミン氏の話では、外国からの援助金の七割は使途不明金なのだという。だから最近では援助国からの監視員がやって来ているのだという。
一部の政府高官が私腹を肥やしているのは、どこの国も変わらない。
外国の援助と一緒にその国の安い製品がごっそりと輸入されて、イエメンの国内産業は徐々に弱っていく一方で、一部の官僚が外国資本からリベートを受け取り、私腹を肥やしていく。しかし誰もそれを正そうとはしない。
じゃあどうしたらいいのだろうか。
私にはよくわからないのである。
ここ数日連続してコシャリを食っている。このエジプトの国民的料理は、われわれ日本人には決してうまい食べ物ではない。
前にも説明したが、コシャリというのは米やマカロニを茹でたのに、トマトソースがかかってるという食い物で、味は想像通りのものである。
これにヒヨコ豆とかなんとかいう豆がパラパラとかかり、これらを韓国のピビンパブのようにかき混ぜて食べるのである。
この味が、エジプト人の「おふくろの味」なんだそうである。
トマトはよく知られているように新大陸の原産で、コロンブス以降に旧大陸に伝わったのだが、手持ちの百科事典によると、食用に供されるようになったのは、十八世紀のイタリアだそうだ。
ということはそれまではエジプトにも、食用トマトは当然存在しなかったということになる。
彼らがトマトを食べ始めて、たったの300年そこそこしか経っていないのだ。この国の膨大に長い歴史を考えれば、トマトの歴史のなんと短いことだろうか。
それにしても、アジアから西へ西へと移動してくると、こちら側の国において、新大陸からの野菜が、いかに不可欠なものとなっているかが、よくわかるのである。
これもエジプト名物の漬物「トルシー」。材料はニンジン、カブ、オリーブ、トウガラシなど。ちょっとした料理のつけだしに出てくる。油っこい料理が多いので、口直しにぴったりなのである。
トウガラシはヨーロッパに伝えられてから、たった100年後には日本に伝わったという最短伝播記録の持ち主なのだが、あの辛さの衝撃は当時は圧倒的だったんだろうと思う。
世界中で食べられているトウガラシは別としても、特にジャガイモとトウモロコシは、東アジア以外の国ではもう不可欠な穀物になっている。その依存度は、日本などの東アジア、東南アジアとは比較にならないのである。
それはやはり、米食文化であった私たちの国々との、栄養摂取の仕方の違いによるのあろう。
例えば日本人に関しては、前出の『食事の文明論』によると、一日五合の米とみそ汁があれば必要なカロリーとタンパク質を補えるのだそうである。
しかしパン食文化の人々はパンだけ食べるとしたら、一日三キロは必要になるんだそうである。
つまり米の方が圧倒的に栄養価が高いのである。
これに加えて、単位面積の収量も段違いに米の方が高いし、さらに連作障害も起こらないという特性も持っている。いわば完全無欠の米食文化が発達したアジアでは、新大陸からのジャガイモやトウモロコシが、たとえどんな荒れ地でも育つといっても、その価値はあまり認められなかったのだろう。
私はアンデスの山奥の石ころしか転がっていないような痩せきった土地で、インディオのばあさんが、ピンポン玉ほどの大きさにしか育たないジャガイモを拾い集めているのを何度も見かけたことがある。
おそらくあれがもっとも原種に近いジャガイモなのだろうが、あの不毛な土地に、それでも作物が育つということに、私は驚いたのであった。
だから逆に、米食文化以外の地域での、これらの作物のインパクトは強烈なものだったに違いない。
例えばイエメンの山の中では、カート畑と並んで延々とトウモロコシが植わっている。
この収量は少ないものの、まったく手間のかからない作物は、午後は丸々カートで終わってしまう彼らの生活には、まったくぴったりの作物だったに違いない。
トウモロコシは乾燥させて粉末にして、アフリカの「ウガリ」のように熱湯でこねて、肉を茹でたスープとともに食べる。これが小麦と並んで彼らの主食なのであった。
あるいはジャガイモがアイルランドやドイツの主食となったように、その適応力と生産性の高さは、まさに人類を救ったとっても過言ではないだろう。
六日間も考古学博物館に通った嫁のと、私のも含めて、合計十枚の入場券の半券。一枚40ポンド(800円)なので、全部で8000円! 学割で半額になるのだが、さすがに三十代後半にして学生を騙るのも大人げないので……やめました。
9月11日(月)
エジプト考古学博物館その三
ちょっとブランクがあったが、続きを見物しに出かける。
本日はグレコーロマン時代以降からで、そのあとは二階に上がって、主に副葬品などの展示物に移ることになる。
プトレマイオス朝時代になると、ほとんどギリシア彫刻のようなヒダヒダとヒゲになる。それはペルセポリスの近くのなんとかいう遺跡と同じで、とても写実的&躍動的なのであった。
ロゼッタストーンのコピーが展示してあった。現物は大英博物館だそうだ。
ロゼッタストーンは、ナポレオンがエジプトに攻め込んだときに発見されたもので、のちにシャンポリオンというフランス人の学者が世界で初めてヒエログリフの解読に成功したというので知られているわけだが、なぜか現物はイギリスにあるのだった。
それでそのロゼッタストーン(のコピー)をよく見ると、同じことが三つの言葉で書かれているのだという。ひとつはエジプトの象形文字ヒエログリフで、もうひとつがデモティック(エジプトの民衆文字というものだそうだ)で、最後にギリシア語で書かれている。
グレコローマンの時代になると、各種の碑文がギリシャ語で書かれていることも多くなる。この頃になると、ギリシアの神様ゼウスも、エジプトの民衆の間に広く信仰されていたそうだ。
それでそのシャンポリオンが象形文字の解読に成功したのは、同じ内容で書かれていたこのギリシア語によるところが大きかったんだそうである。
すなわちシャンポリオンは、ギリシャ語との対比で、まず神様の名前を割り出して、そこから象形文字のひとつひとつの発音を拾っていったのだそうだ。
あの一見して絵としか思えないような文字をどうやって解読したのか、今までナゾだったのがようやく解けた。
二階に上がる。
二階はかのツタンカーメンのマスクとその副葬品、それに各種柩とその埋葬品で埋め尽くされている。
中でも面白かったのは、墓から発掘された紀元前1200年のパンである。
褐色に変色したビスケットのようなパンである。
しかしその形は、現在食べているエジプトパンとさほど変わりないのである。
それと動物のミイラ。
これはけっこう製造されたらしく、その理由はおおむね以下の四つに分類されている。
ひとつは主人が可愛がっていたペットであった。
ふたつ目は、埋葬される死者の供物として。
三つ目は、それ自体が神聖な個体であったこと。
四つ目は、願掛けミイラ。
となる。神聖な個体としての例は、体長五メートル以上ある大ワニのミイラや、やはり体長一メートル以上もある巨大な淡水魚のミイラがある。これらは生前、飼育されていたものだそうだ。
願掛けというのは、文字通りで、主に鳥のミイラを造り、これを人間の疑似ミイラとして埋葬して、願掛けに利用したという。
日本ならせいぜいおみくじを神社の境内に結びつけるくらいだけど、こちらはミイラ文化なのであった。
他にもイヌ、サル、ウマ、ウシ、ヒツジなどのミイラが造られている。
今日見物できたのはそれ以外にいくつかの柩だけだった。
しかしそれらを見ていると、いずれもひどく破損したものが多いのだった。
いうまでもなく盗掘によるのだが、それも柩の側面にノミを打ち込んで穴をあけて、そこにバールを突っ込んでこじ開けるとか、もっとひどいのはハンマーでぶん殴ってぶち壊したりしているのもある。荒っぽいのである。
それでも盗掘されたあとに残されたものを拾い集めたものが、ほとんど無限の数に近いほど陳列されているのだった。
そう考えると、ファラオの時代の埋葬品がいかにすばらしいものだったかを思わずにはいられない。
例えばユーヤという王様がいて、この人の墓も盗掘されたのだが、盗賊は時間がなかったらしく、めぼしいものだけを盗んで立ち去ったらしく、その時に掘った入口を埋めていった。それから長い年月流れて、二十世紀の初めに発掘されたときには、まだたくさんの副葬品が残っていた。ツタンカーメンほどの権力はなかったらしく、そのデスマスクも木製で金泊を貼っただけのものだった。
そういう感じで、ツタンカーメン以上に豪華な墓は、おそらくほとんど根こそぎ盗掘にあっているのだった。
この連中にどんなファラオの呪いがかかったのかわからないが、バチは当たったものと思いたい。
その他にも、おそらくイスラム教徒による「顔面はがし」がひどいのである。
タリバンがバーミヤンの遺跡を爆破したように、ファラオの柩に刻まれた故人の顔面が無惨に破壊されているものが多いのだった。
これは中国西域の仏教遺跡も同じことになっているけれど、まったくムスリムには困ったものなのであった。こういう状況から戦前には、遺跡の保存を口実に、西洋の調査隊が大量に遺跡を中国から持ち出したりしているのである。
放ったらかしにしておいた、その土地の為政者にも、確かに責任はあるような気もするが、それは後付けの説明のような気もする。
日本の仏像が、フェノロサによって美術品になってしまったように、外国の客観的な評価を受けないと、その価値というものは発見されないものなんだろうか。
というよりも、戦前の帝国主義の時代に、文化財の保護というものが、国策として競争のようにして各国が調査隊と派遣した時代だったのだ。
同じ時代に、日本では小笠原諸島が激烈に開発されて、今では数十本に激減してしまったオガサワラグワを乱伐採してしまってもいるのだった。
世の中のすべての国が、富国強兵、殖産興業、国威発揚が国是で、それに向かって邁進していた時代だった。大学では実学こそが重要で、小説家なんて無意味な職業なんて、侮蔑の対象のような時代だったのだ。
世界中が、一等国家と二等国家と植民地に区別されて、そこには厳然とした、越えることのできない大きな垣根があったのだ。
すべての国が露骨に、自国の国益だけを目的にした植民地の争奪戦を進めていたのだった。
負け組になったトルコやインドや中国のような、かつての大帝国は、あっという間に西洋に飲み込まれてしまい、かろうじて勝ち組に残った日本は、うまく立ち回って中国に利権を伸ばしていたが、結局、西洋の利権とかち合って潰されてしまった。
そういう激烈な生存競争の時代と比べると、現代のなんと平和なことだろうか。
同じように帝国主義の時代に絶滅してしまった動物がいったい何種いるんだろうか。
インド洋の孤島にいた飛べない鳥「ドードー」や、ニュージーランドの「モア」や、また北極圏に無数に生息していたというペンギンも、一羽残らず絶滅してしまった。
人間の無知と傲慢による環境破壊とムスリムの蛮行。
当時はそういう時代だったのだから仕方がない。
それはそうかもしれない。
しかしそれでは簡単すぎないだろうか。
本日も閉館ギリギリまで見物して、ホテルに戻ってひと休み。
それからサファリホテルに、情報収集兼飲みに出かける。
途中でコシャリで腹ごしらえをしてから、つまみにイカフライを買い、ビールとウオッカを買って長い長い階段を登る。
人がたくさんいた。
こんなに宿泊客がいるのは意外であった。おそらく二十人はいるようだ。
酒屋のにいちゃん。棚に並んでいるのはエジプト産のウイスキーとウオッカ、ブランデーなど。イスラム国家にもかかわらず、ひと通りの酒は醸造している。
それで本日は同じ宿泊客の誕生日パーティーだそうで、みなさんその準備に忙しそうにしている。
我々は邪魔にならないように外で待つが、どうも忙しそうだし、人が多いので出直すことにする。人が多いのは苦手である。
帰って部屋でイカフライを肴に酒を飲んで日記を書いて寝た。
イスラム地区にはお土産用のシーシャがたくさん売られている。かつて私もひとつ買ったのだが、溶接が杜撰で、水漏れ&空気漏れがひどく、まともに楽しめなかった記憶がある。最近のはよくなったんだろうけど……。
9月12日(火)
エジプト考古学博物館その四
本日で四日目の博物館見学である。
私は今日ですべての展示物を見終わるのだが、嫁はさらにもう一日かかるという。
これも毎日起きるのが正午で、見物を始めるのが午後二時過ぎであることが最大の原因なのだが。
結局、四日間でおよそ十五時間くらいかけて見物したことになる。
二階の残りの部分、副葬品の展示とツタンカーメンの展示が主な残りだったのだが、その間に気がついたことを記しておこう。
・ヅラ
ついにあった。まるでバッハやモーツァルトのようなごっついヅラである。
くせっ毛のアフロのような大きなのもある。やはりあの妙な髪型はヅラであったか。しかし黒髪でアフロのヅラというのは、見た目がなんとなく不潔である。かぶった瞬間に得体の知れない虫に頭中刺されてしまいそうである。
そういえばパプアニューギニアのヅラも、そうとう不潔そうであったが、それに近いものがある。
・棺桶の足
ツタンカーメンをはじめ、すべてのミイラが、木製あるいは石製の、人型の棺桶に安置されているわけだが、その棺桶の足が、時代を経るに従ってどんどんでっかくなっていくのである。そして終いには、それがそのまま墓石のような大きさにまで成長するのである。
西洋の棺桶が、土葬する際に頭をどっちに向けて安置されるのか知らないけれど、もしかしたらあちらの墓石の起源は、このミイラの棺桶の足に起源があるのではないだろうか、と考えたりしたが、そんなことはないのかなあ。
・グレコローマンのミイラ
なんとミイラはローマに占領された紀元後にも、まだ製造されていたのであった。
その頃になると、ミイラの顔面の部分に、麻の包帯で巻いた上に故人の肖像画を描いた板を被せるようになる。その作風がもう西洋の油絵そのままなのであった。そういう肖像画は多数発掘されているらしく、壁の陳列棚にずらっと並んでいた。
・ツタンカーメンのブーメラン
ブーメランというのは、オーストラリアのアボリジニーの専売特許であると信じきっていた私にとって、この事実は衝撃であった。
形状は、アボリジニーのもののように線対称ではなくて、片方が長く、さらに刃もそれほど研ぎ澄まされているというわけでもなくて、わりと不格好なのだが、明らかにブーメランなのである。
これを実際に狩りに利用したのかどうか、説明書きがなかったのでよくわからない。
わざわざアボリジニーのブーメランと対比して展示してあった。
共時的に偶然に同じ文化が発達するという興味深い事例なのだろう。
・考古学博物館におけるドレスコード
考古学博物館は、言うまでもなくほとんどすべての観光客が、エジプト滞在中に一度は足を運ぶ場所である。
そこでは多種多様な人種と国民が観察できるのだが、これらの様々な観光客の、女性におけるドレスコードの緩急という条件で観察すると、厳しく遵守している順に以下のようになる。
アラブ人→東洋人(日本人)→東洋人(非日本人)→西洋人(ヨーロッパ系)→西洋人(アメリカ人)
アメリカ人か否かというのは、ガイドの説明が英語でなされていたというただそれだけの理由なので、イギリス人あるいはオーストラリア人あるいはカナダ人あるいは南ア人の可能性もあるのだが、まあひとくくりとしよう。
日本人はかなり穏当な服装の女性が多い。
ガイドブックにも神経質なほどに、服装についての留意が促されているせいもあるのかもしれないが、それよりも全体に現地の慣習を尊重しようという気持ちが強いのだろう。
「郷に入っては郷に従え」ということわざの通りである。
これより若干、服装がラフになるのは、例えばシンガポールあたりの英語圏の中国人に多いようだ。対して大陸系の中国人は全体に、日本人以上に地味である。
それと韓国人ツアー客も、若い女性を中心に、かなりラフだった。
日本人よりも途上国の人々を見下す傾向が比較的強い人々なので、「現地の習慣軽視」というのも、わかる気もしないでもない。しかしそれでもまだ肌の露出は、以下の人々に比べるとかわいいもんである。
ヨーロッパ系の人々になると、その開放感は段違いである。
若い女性の間で、かなり短いショートパンツにキャミーソールという人が増える。おそらくビーチリゾートも兼ねて来ているのだろうから、そのノリで町中の博物館にもやって来るわけだ。
私が見たのは主にドイツ人とイタリア人だったが、いずれも若い人はそうとう開放的であった。しかしこの人たちの場合には、年配の人たちの服装がわりと落ち着いているので、まだ救いがある気がする。
犯罪的にすごいのがアメリカ人である。
この人たちになると完全に「地元の習慣無視」である。しかも若い女性よりも年配の女性の方が肌の露出がハデになる。
尻の肉がムッチリとはみ出した極短のホットパンツと、ピチピチのキャミソールから、シミだらけのたるんだ肉がはみ出している。
我々からに見るとかなり醜悪なのだが、当人達は当然ながらそれで平然としている。
そしてこれらに同伴する配偶者の男たちも、これに劣らず露出が激しいのである。やはり短パンから、日やけして真っ赤な足と、もじゃもじゃのすね毛がはみ出している。しかも彼らは背が高く足が長いので、これに比例して露出部分も広大になるのである。博物館の前庭では、上半身裸で日光浴している男もいた。
この人たちに共通しているのは若い人に限らず、老境に至る人々の露出が著しく激しいことである。
彼らにとって、この国がイスラム教徒の国であることなんて、まったく顧慮に値しないことなのである。
どこに行っても「アメリカ流」が正しいと信じて疑わないこの人たち。
彼らの過度に露出した服装が、彼ら西洋人の傲慢を、そのまま表しているように見えた。
まさにその傲慢こそが、アメリカに対する潜在的な脅威の拡大に、間接的に荷担しているのだということに、彼ら自身が思い至らないことが、私には不思議で仕方がない。
ところでここの博物館は写真撮影が厳禁である。
それはストロボによって太古の色素が退色するといった理由ではない。
なぜなら午後になると、展示物に平気で西日の太陽光線ががんがんあたっているからである。
ではなぜ写真はダメなのか。
考えられる理由はただひとつである。
「写真集を買え」
そして一階の売店で売られている写真集は、そのもっとも安い、ほとんどパンフレットに毛が生えた程度のものですら、定価が80ポンド(1600円!)もするのである。
こんなものは日本の本屋でも五百円もしないだろう。
つまりあくまでも、あくまでも、この世界的な史跡群を利用して、外国人観光客から金を搾り取ろうという、もう妥協の余地すらない、苛烈なまでの国策なのであった。
今までで最も高い拝観料をむしり取ったのは、他でもない、インドの「タージ・マハル」であった(およそ20ドル)。
この点で、この国のえげつなさはインドと確かに共通している。とある旅行者はエジプト人を評して、
「インド人をちょっとかわいくした感じ」
と言っていたが、私にしてみれば勝るとも劣らないレベルではないかと思う。
ムスリムであるエジプト人は、自分の利益のためには平気でウソはつくものの、盗みやかっぱらい、監禁して金をせびるというような犯罪まがいのことは、イスラム法で厳しく罰せられる長い慣習があるので、まずやらないようだ。
だからその点では、インド人よりも心やすい部分もあるのだが、しかし彼らは合法的に組織的にぼったくるのである。
たとえばカイロのツアー会社による、外国人を相手にした不当に高いツアー料金設定は悪名高いが、おそらく相互に協定が結ばれているに違いない。
あるいは観光地での土産物屋もそうだろう。
そしてその組織的なぼったくりの最大のものが、他でもない政府による、非常に高い拝観料金の設定なのであった。
それは考古学博物館内の「ミイラ室」の入場料が別途で100ポンド、なんと二千円もしたり、王家の谷における「ツタンカーメンの墓」の入場料が、これも別途で70ポンド(1400円)もぼったくることからもわかろうというものだ。
これらの金額が、いったいどういう妥当な計算の上からはじき出された金額であるのか、誰も説明ができないだろう。ミイラや墓の維持管理に、それだけ金がかかるとは到底思えないのである。
しかしそういうことも、ほとんど無限に好意的に考えるのならば、この国が資源に乏しく、国土のほとんどが砂漠で、過去の遺跡以外に、なんの外貨獲得の手段もないという事情を考えれば、仕方のないことなのかもしれないとも言えるのである。
カイロに限らず、古い建築物というのは、外観を非常に重視していることがよくわかる。このビルも美観を十分意識して設計されているのだが、その反面で安全性が軽視される傾向があるようだ。具体的には手すりが異常に低いのである。高所恐怖症の我々は、決して窓には近づかないようにしていた。
9月13日(水)
カイロ・アメリカン大学
本日は、嫁は博物館の続きを見物に出かけ、私は本屋に行くという、珍しく別行動にした。
洗濯をしてから午後三時半くらいにホテルを出る。
カイロ・アメリカン大学というのがあって、そこの本屋が洋書がもっとも充実しているというガイドブックの情報だった。
行ってみると確かに大学らしい広くて緑の多いキャンバスである。正門の目の前には、ピザハットとケンタッキーとマクドナルドが三者そろい踏みであった。
入口でパスポートを預け、書店の入口でさらにカバンを預けて中へ。
確かに洋書だけならここがもっとも品揃えが充実しているようだ。辞書や学術書、ガイドブック以外にも小説もある。
イスラムアート関係の本の中から、ペルシャ絨毯のデザインに関する本を一冊と、地図好きの私としては、カイロの市街地図、エジプト全図も見逃せない。数ある中から、できるだけエジプトの版元を探して三つ買った。ひとつは『Cairo123 City Touristic Map & Guide』ローカル出版社によるカイロ観光地図。ペラペラの紙で、三日くらい持ち歩いたら簡単に破けてしまいそうな安物だが、それがまたいいのである。15ポンド(300円)
もうひとつは『EGYPT DETAILED MAPS』。こちらはイタリアの出版社で、作りははるかにしっかりしている。ビニールコーティングしてあるので、何度も開閉しても破れにくい。それにアレキサンドリア、ルクソール、アスワンの、カイロ以外の三大観光都市マップもついている。印刷もきれい。そのぶん値段は25ポンド(500円)と高いのだが、実用性も加味してこれにした。
三つ目は『EGYPT A PICTORIAL MAP』。要するにエジプトの観光イラストマップである。
英語、仏語、独語が併記。出版社はイギリスのバーソロミュー社。世界各地の地図を出版している会社。これは持ち歩いて役立つのではなく、トイレの壁にでも貼って、ウンコしながらニヤニヤと眺めたい一品である。20ポンド(400円)。
ここの本屋には和書はひとつもなかった。エジプトのガイド本も、ヨーロッパの主要言語以外はまったく無視、完全に黙殺である。
ちなみに考古学博物館では、博物館のパンフレットとツタンカーメンのパンフ、それにピラミッドに関するパンフが主要言語のシリーズになっていて、それに日本語が、中国語と供に加えられているだけで、他はすべてヨーロッパの言語「だけ」なのであった。完全に東洋は締め出されているのであった。
この国の顔が、いかに西洋を向いているか、というよりも西洋しか見ていないかがよくわかる。もちろん地理的にも政治経済的にも、文化的にも、そして歴史的にも仕方がないことなんだろう。
考えてみれば、この国は歴史上、西洋と幾度も戦い、和解し、時に打ち負かし、しかし同時に蹂躙され、最後には征服されてきたのだった。
その長い歴史の中で、東洋人の私たちが介在することは、中国の陶器が長い旅路の果てに辿り着いたことくらいを別として、一度としてなかったのであった。
本屋をあとにして、床屋に行って散髪。4ポンド(80円)。
それから、かつて泊まった「オックスフォード・ペンション」らしきビルに行ってみた。
入口には一階に店舗を構える背広屋の客引きがやたらうるさくて閉口する。
入口のテナント表には、確かに見覚えのある看板があった。
客引きを振りきって「ロ」の字型の吹き抜けになっている階段を登り始めた。
記憶ではもっと階段が広かった気もするがなあ。
確かエレベーターがその中心にあった気もするし……と思い悩みながら、最上階まで登ったが、ホテルはどこにもなかった。ただ最上階までの途中の数階がガランとした空き店舗になっていて、ベニヤ板が打ちつけられているのもあった。
もしかしたらこれだったかなあ。
という入口に佇みながら、しばらく当時の記憶を思い起こそうとするのだが、まったくダメだった。あきらめて外に出て、記念に「オックスフォード・ペンション」の割れた看板を写真に収めた。
中央の半分に欠けたオレンジの看板に隠れているのが「オックスフォード・ペンション」の看板。一階には確かジューススタンドがあったと思うのだが、それもなくなっていた。
「なにを撮っているんだ?」
客引きのにいちゃんが話しかけてきた。
「その看板は、「オックスフォード」っていうホテルのだろ?」
「ああ。そうだよ。でももう閉まっているよ」
やっぱり。もう少し尋ねたいことがあったのだが、うまいことお客さんがつかまったらしく、忙しくなったので退散することにした。
やはりここだったのだ。
記憶ではタハリール広場とタラアトハルブ広場の間にあったと思っていたのだが、違ったようだ。
あそこの「虎の穴」も、今では埃をかぶって、ひっそりと静まりかえっているのだろう。
なんだかもの寂しい気もするが、しかしガイドブックを読んでいると、今では安くて清潔で新しいホテルが、いくらでもあるのだった。
あのベッドバグだらけの、しかも風呂もトイレも不潔なボロホテルが、生き残っていけるわけがないのだった。
今から考えれば、当時の貧乏旅行者が泊まっていたホテルというのは、なんと不衛生で居心地の悪いところばかりだったことだろうか。
バンコクのカオサンだって、今のように清潔で設備の整った、それでいて安いホテルというのは皆無で、ベニヤ板を打ちつけただけの、二畳間ほどの物置のように暗い部屋に、足がもげかかって傾いたベッドが打ち捨ててあり、そこに横になって、やたらに扇風機を回してなんとか暑さを飛ばす、というようなところばかりだったのだ。
中華街の楽宮旅社が潰れたというのも、考えてみれば時代の趨勢からすれば当然なのであり、あんなボロくて不潔な宿に、今時の旅行者が泊まるわけがないのである。
同じ金額でもっと快適な宿がごまんとあるのが、今の状況なのだった。
我々の「スイス・ホテル」にしたって、ほとんど客が泊まっていない。
それが我々には居心地がいいので泊まっているだけで、同じ金額を出して、もっともっと新しく清潔なホテルに泊まれるのが現実なのだった。
しかしそんな中で、当時のままの営業スタイルで存続している「サファリホテル」は、もはや奇跡のような存在だろう。
おそらくあそこが生き残ってきた理由は、日本人だけに特化して、日本人にだけ格別に居心地がよいように、長い時間をかけて「整備」されてきた、その一点によるのだろう。
あの大学サークルの部室のような一種、退廃的な居心地のよさは、確かに他のホテルでは味わえないだろうと思う。
それはサンパウロの「ペンション荒木」やフンザの「コショーサンゲストハウス」と同じく、ある程度「自治」が認められていることが大きいのだろう。
そして外的な要因として最も大きいのは、「地球の歩き方」に、いまだに毎年ちゃんと紹介されていることである。しかも驚くべきことに、あそこのビルで営業する三つのホテル、すべてが紹介されているのである。
おそらく編集部では、「ロンリープラネット」との差別化という意味で、絶対にはずせない物件なのだろうと思う。ロンプラがいまさら、日本人以外、誰も利用しないホテルを紹介するはずもないのである。
そこに利用価値がある以上、あのガイドブックは、この三つのホテルを今後も紹介し続けるに違いない。
ということは、「サファリホテル」は、しばらくは安泰ということになるだろうか。
帰りに酒屋で、まだ飲んでいないビールを三本とガイドブックでオススメの「オベリスク」という銘柄のワインを一本買い込んで帰宅。
夕食はイカフライ&エビフライとビール。
やはりシーフードはいいわ。
イエメンにいるときから、肉はもういらないから魚を食べさせてくれ……と願っていたので、本当に助かる。これからは食事的にはだいぶ楽になりそうである。
日付が変わった頃に「オベリスク」を開ける。
これがめちゃくちゃうまい。十分なフルボディである。これで600円は安い。
と、感動して特筆してしまいました。おすすめです。
一瞬、教会の入り口かと思うが、あにはからんや、イスラム地区のとあるモスクの入り口である。西洋の教会建築がいつくらいに成立したのか知らないけれど、モスクの建築様式が大きく影響していることは間違いないのではないだろうか。
9月14日(木)
コプト博物館その二
本日も別行動。
嫁は相変わらず博物館へ。
私はこの間見そびれたオールドカイロのコプト博物館へ。
地下鉄に乗ってマルギルギス駅で下車。目の前が件の博物館である。
入場料はなんと40ポンド(800円)。考古学博物館と同額である。
ということは、おそらくあの規模のクオリティではあり得ないだろうから、必然的に「割高」ということになるだろう。とにかくすべての入場料が「高い」のがエジプトなのである。
そんで中に入ってみる。
有名ないわゆる「コプト織り」というのがいくつも陳列されている。エジプトは昔から綿花や麻の生産が盛んだったのだろう。現在でも綿花は輸出品として重要だし、ミイラの例の包帯はすべて麻であるという。
イコン(宗教画)のようなものもたくさん残っているが、説明によると、それらは多くが十八世紀、十九世紀になってから描かれた作品で、しかもシリアやアルメニアから画家を呼んで作成されたものが多いそうだ。確かに同じギリシア正教会系なので、雰囲気はよく似ているのであった。
そういう人物画よりも興味深いのは、イスラムに通じる幾何学模様の建築だった。
人物も織り交ぜて描かれてはいるのだけれど、ブドウやアザミ、ザクロなどのツタ模様を多用しているのだった。
中にはそのままモスクに転用されていたアーチ上のレリーフもある。
つまりそれだけ似通っているのだった。イスラムのアラベスクの原型とも言えそうな作品が、たくさん残されているのだった。
イスラム美術は、ササン朝ペルシア時代のイランの影響を非常に強く受けているというけれど、あの唐草模様は必ずしもペルシア独特のものというわけではなかったのだろうか。
博物館には紀元六世紀頃の木製の巨大な鎧戸が展示しているのだが、それには非常に見事な唐草模様が一面に描かれているのだった。
館内は写真撮影禁止なので資料が手元にないのが残念。
しかしもう一歩考えてみると、ササン朝以前のアケメネス朝時代に、エジプトはペルシアに支配された時期が確かにあるのだった。この時期に、すでにアラベスクの下地のような文様が存在したんだろうか。
実は朝から腹の調子が悪くて、博物館でうんこが我慢できなくなって、途中でトイレを借りに走る。
館外に立派なトイレがあり、そこに駆け込むが、どの個室も故障しており、水が流れないのである。
そのうちの便器のフタが閉じられていたふたつに至っては、ここに書くのも恐ろしい状況であった。
ほとんど絶望的な気分になって、一番奥の個室を試してみたら、そこだけがほとんど奇跡的に水が流れたので、数分後に私は平和な気分でトイレをあとにすることができた。
神のご加護である。
しかしながら言わせてもらえば、40ポンドとるんだったらトイレくらいきちんと直しておけよ。
一階から二階にエレベーターに乗せるだけで、係員がしっかりバクシーシを要求する博物館なのである。
二時間じっくり見物して、ナイル川に向かって歩いていった。
中洲にかかる木製の古い橋を見に行こうと思ったのだった。
それでひどく車の通りの激しい幹線道路を、ようやく渡って川を眺めていると、私のすぐ後ろで、鋭い急ブレーキと同時に、ものがぶつかる鈍い音がした。
振り返ると、中央分離帯に若い男がひっくり返って倒れている。
人身事故である。
うめき声をあげているところを見ると命に別状はないらしいが、骨くらいは折れているかもしれない。
轢いた車は当然のように走り去ってしまっていた。
近所の人々が二十人ほどわらわらと駆け寄ってきて、しばらく唸っている男を取り囲んでいたが、ちょうど出かけようとしていた人の車があったらしく、それに乗せられて病院に搬送されていった。
事故現場は、二、三分前に私が渡ったまさに同じ地点であったので、私はゾッとしながら、対岸から、その成り行きを見守っていたのだった。
無理に横断しようとしたその若い男も悪いのである。なぜならそこから三十秒も歩いたところに歩道橋が設置されているからだ。
しかしそれを差し引いたしても、ひき逃げして行った車のドライバーは、そうとうに悪質である。
日本だったらひき逃げ犯人は、ほとんど100%近い確立で捕まるそうだから、逃げるだけ損ということになるけれど、この国ではそんなこともないのだろう。
あるいは戦前のインドのように、人身事故を起こして現場に残っていたら、親戚一同にリンチにあって殺されてしまうという恐ろしい風習が、もしかしたらこの国にはまだ残っているのかもしれない。
いずれにしても、この一年間、事故に巻き込まれることもなく無事に旅行してこられたことは、実は本当は、かなりラッキーなことなのかもしれないなあと、改めて思ったのであった。
事故といえば、この間イエメンのネットカフェで会った日本人女性がシャハラのツアーに行ったとき、途中の警察ポストで検問を受けていたら、後ろから猛スピードで走ってきた車がその警察の建物に激突して大破したのだという。運転席の男は頭がざっくりと割れて血が噴き出しており、おそらく即死だったらしい。
「あたしたちの車がね、もしあと少し後ろに停まっていたら、あの事故に巻き込まれてたんですよねえ。それを考えたら本当に恐ろしくって……」
いくぶん興奮気味に彼女は当時の様子を語っていた。
確かに日本でも、いつ交通事故に巻き込まれてもおかしくないのだが、それが途上国になると医療の不備も含めて致命的なことになりかねないのである。
世界中を自転車で旅行している人が、実はけっこう交通事故で亡くなっている人がいるという話を聞いたことがあるし、そういう事件性のない事故は、報道されないのが普通なのである。
カイロの街を歩いていて、いつの間にか急ブレーキの音が珍しくもなんでもなくなってきている自分を、今一度戒めようと思った。
紙一重のところで、いつも私たちは旅行しているのである。
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