ダハブのビーチ沿いの遊歩道。彼方の山々はシナイ半島の大部分を占める岩山群。赤茶けた大地が夕日に映えて真っ赤に燃え上がる。素晴らしい眺めであると同時に、生物の痕跡を留めない壮絶な自然を思わせる。
 
10月18日(水)
本日休憩
 
昨日、少々ビールを飲んだだけで、本日は二日酔いである。
もうだめだ……。
それで午後遅くまで本を読んですごす。
午後四時くらいになって散歩に出かける。
町を歩き回ることが、初めての町では非常に有益であることは言うまでもない。
レストランの前に張り出されているメニューを見比べて、どこが安くておいしそうか見当をつけ、あるいは雑貨屋はどのあたりにあるのか。ネットカフェはどこか、料金はどこが一番安いのか。などなど。
今日やったことは、今泊まっているホテルの便所があまりに汚いので、引っ越し先を探すのも兼ねているのだった。
ダハブは、その他のビーチリゾートと同じく、長いビーチ沿いに町が広がっている。海岸に沿って整備の行き届いた石畳の遊歩道が、全長二キロほどの長さで続いている。両端は開発途中である。このコースを物好きな白人はジョギングしていたりするのも見かけた。
まず北橋の方に歩いていくと、繁華街が過ぎたあたりからちょっとすさんだ感じの、鄙びた安宿がいくつか並んでいて、その先には、逆にちょっと高めの、こざっぱりとした中級リゾートがいくつか並んでいる。その先は道も途切れて造成中であった。
 
こういうパターンは、考えてみると世界中のどこのリゾートも同じなのである。
例えばセブ島のモアルボアルも、まず最初に町の中心部に草創期の老舗ダイブショップと宿泊施設ができ、その周囲に土産物屋と、競合ダイブショップなどが建ち始め、さらにその先の、最も便利の悪いビーチ両端の一帯に、きわめて安いゲストハウス群が建ち並ぶ。そしてある程度知名度が高まってくると、そのさらに周囲に、国内資本による中級リゾートの建設が始まる。あるいはその土地に住み着いた外国人が始めるプチリゾートの場合もある。
そして最終段階として、十分に知名度が高まり集客力が安定したところで、満を持して外資系大資本の巨大ホテルが、その数キロ先あたりにドカンドカンと建ち始めるのである。
 
といったようなことが、おそらく世界中のリゾート開発の、おおよその順序ではないだろうか。
草創期に観光資源を発見して、それを育ててきた人は、もちろんビーチの一等地に店やホテルを構えているので、立地条件は抜群である。
しかしそれを見つけるのは結局、外国人バックパッカーのネットワークである場合が多いのではないだろうか。
例えばインドのゴアも、かつては有名なヒッピーのたまり場であったわけだが、現在は見事にお金持ち向けのプチリゾートに変身しつつある。
金のない貧乏旅行者たちはゴアからさらに南の、ナントカいうビーチに溜まり始めているのだという。貧乏人は金持ちよりも切実だけに、そういった情報には敏感なのである。だからネットワークも確実に働くのである。
津波で壊滅してしまったが、タイのピピ島も、バックパッカーのネットワークによって溜まり場となり、開発が進められていったわけだが、ほんの十五年くらい前までは、電気も通っていない、ただの孤島だったそうだ。サムイ島も、チャン島も似たような過程を歩んだに違いない。
そうやって、おそらく外国人バックパッカーが、よくも悪くもリゾート開発の先兵となっているのが現実なのであり、しかも最終的にそれを決定するのは、興味深いことに、もっともアナログな「口コミ」という手段なのである。
 
 
マシュラバビーチの端の方には、建設途中で放置してあるリゾートホテルがいくつか見られた。おそらく四月の爆弾テロの影響ではないだろうか。政情不安は、この地域の最大の不安定材料である。
 
 
そんなことを考えながら散歩をしているうちに、反対側の南端に到達。
こちらもさらに町の拡張の兆しが見える。
しかしやはりこのあたりになると大資本による大型リゾートが計画されているらしい。すでにかなり広い土地が整地済みだった。おそらく三年後にはでっかいリゾートホテルが林立しているに違いない。そしてその頃には、ここに溜まっていたバックパッカーたちは、次なる安宿の集結地点に引き移っているに違いないのだ。
そういえば、ここダハブも南部のシャルム・エル・シェイクも、イスラエルが開発したリゾート地なんだそうである。バンコクのカオサンも彼らが最初に「発見した」ことを考えると、そのネットワークの強力さは、侮れないのであった。
 
歩いている途中で案の定、魅力的な看板を発見。
「ハッピーアワー PM6:00〜10:00 ステラビール6ポンド」
「ああ、今晩はここだね」
即決してしまった。
カイロではどんなに安いレストランでも、11ポンドが底値だった。
酒屋で買ってようやく4.5ポンド。
それを考えると、しかもラマダン中に堂々と酒を販売しているというのは、まさに外国人のためのリゾート地ならではなのである。
この町がテロの標的になったことも、来てみて初めて納得できた。
おそらくそういう店で働いている従業員はみな、キリスト教徒に違いない。のちに我々が引き移ったホテルのレストランではアルコールはいっさい置いていなかった。つまり彼らはムスリムなのであり、敷地の一角に藁葺きの粗末な小屋があり、そこがサラートの場所となっているのだった。日が暮れる頃になると、そこで何人かの従業員が、東南の方向に向かって祈りを捧げているのを何度も見かけたのだった。
酒を出す方が集客力が上がることは間違いないのだが、敢えてそこまでしようとしないところに、ムスリムの矜持を見るような気がしたのであった。
 
そういうわけで、夕食はステラビール6ポンドの「スフィンクスレストラン」で、ピザとイカサラダ、ビール。
翌日もこれで二日酔いが続行してしまった。
私の弱り切った肝臓、誰かなんとかしてください。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「スター・ダハブ・ホテル」の、ビーチに隣接したレストラン。まさにリゾート気分。しかもラマダン中で、ほとんど貸し切り状態である。しかし、すべてのメニューが高い。なので一回しか利用しなかった。まったく金を落とさない日本人である。
 
10月19日(木)
「スター・ダハブ・ホテル」に引っ越し
 
朝から荷物をまとめてホテルを出る。
お会計は明朗だった。さすが有名安宿である。
しかしたった二泊しかしていないので、40ポンドにしかならず、宿の人々にはちょっと後ろめたいものがある。おそらくこの宿は宿代で儲けているわけではなく、スキューバダイビングのツアーで儲けているに違いないのである。
 
それはいいとして、昨日目星をつけておいた最南端のホテルまで、荷物を担いで延々と歩いた。十分くらい歩いただろうか。それでも遊歩道は続いている。途中はけばけばしいネオンのレストランが林立していて、客引きがかまびすしい。
それを過ぎると、中級以上のプチリゾートが数軒続いて、雰囲気は格段に上品になる。
さらにそこを過ぎると鄙びてきて、観光客の姿はまばらになる。
とはいってもダハブ全体が閑古鳥状態らしく、どこのレストランも空席だらけで、なんだか寂しいのである。午後十一時を過ぎると、どこのレストランもまったく客の姿がなくなってしまう。
やはり4月のテロの影響がいまだに深刻なのだろう。
 
ようやく辿り着いた「サンスプラッシュホテル」は、あとでよく見るとロンプラにも載っていた。マネージャーは留守とのこと。
しかたなく共同便所のコンセントで湯を沸かしてインスタントラーメンをつくってすする。
まだ帰ってこない。
我々が昨日見せてもらった部屋はビーチに面した木造の掘っ立て小屋なのだが、小さなベランダがついていて、海がきれいに見渡せるのだった。それが気に入って引っ越しを決めたのだが、よく見てみると、どうも先客が入ってしまっているらしいのだった。
ドアの隙間から透かしてみると、衣類が散乱しているのが見えた。隣の部屋にも男物の靴が置いてあった。おそらくグループできてここに泊まっていて、ダイビングのツアーにでも出かけているのだろう。
この部屋が気に入って来たのに、泊まれないのではしかたがない。
電気ドロボウになってしまって恐縮だが、他を探すことにしよう。
我々はまた荷物を担いで歩き出す。
途中で声をかけてきたリゾートホテルの客引きが、ずいぶん安いことを言っていた。
確認してみると一泊25ポンドの部屋があるという。
ついていってみることにする。
そこは「スターダハブホテル」という、数あるプチリゾートの中でもとりたてて特徴もないホテルなのだが、その脇にひっそりと長期滞在者向けの掘っ立て小屋があるのだった。
さっきのサンスプラッシュホテルもそうだったが、どこのホテルでも、そういう長期滞在者向けの安い部屋を用意しているのかもしれない。
その証拠に、そういう部屋を紹介するときには、必ず宿泊日数を確認するのである。そして我々が、
「一週間くらいかな」
と言うと、まずは納得したような顔をして頷くのであった。利益にならない短期滞在客は泊めないようにしているのだろう。
 
それでその部屋はというと、なんと意外といいのである。
三部屋すべてが空いていて、そのうちの一番大きい部屋がよかった。
細長い部屋で、簡素なテーブルとイスが備え付けてある。他よりも高くて30ポンドなのだが、そのイストテーブルが気に入ったので、ここに決めた。
ちょっと便所が遠いのだが、しかたがない。
 
 
備え付けのイスとテーブルが、ちょっとコンドミニアムっぽくて使い勝手がいい。しかし備え付けのふたつの電灯は暗すぎたので、100wの球と交換した。
 
 
ダハブはどこのホテルに行っても猫がいて楽しいのだが、ここのホテルにも黒猫の親子がいた。たいがいは人間になれていないので、警戒して逃げてしまうのだが、中には非常に人なつこくじゃれてくるのもいる。スーパーにいた、東京の姉の家に預けているうちの猫とそっくりなのがいて、我々はヨダレを流しそうになった。
そういえば猫にも一年も会っていないのだった。
ああ。猫よ……。
 
午後遅くなってから、シュノーケリングに行ってみることにした。
フロントでセットを借りると10ポンド。
目の前のビーチからエントリーできる。楽である。
そして三十メートルほどの浅瀬から一気に深くなる。
吸い込まれそうなほど真っ青な海であった。
非常に透明度が高い。すばらしい色だ。
しかし魚の数はそれほどでもない。魚影はフィリピンのセブやインドネシアのブナケンの方が、はるかに濃い気がした。
とは言ってもビーチエントリーなので、ボートツアーに行ってみないとわからないが、それにしてもブナケンでは、ビーチからバシャバシャ歩いていって潜ったところにウミガメが泳いでいるという感じなので、その魚との親近感は比較にならない。
おそらくドロップオフの規模にもよるのだろう。
ブナケンの100m近く一気に落ちるのとは、やはり大物の出現の割合が違ってくるのだろうと思う。
 
「世界一の海」と絶賛される紅海だが、本当にそれほどの評価のものか、私にはちょっと疑問が残るのである。もしかしてこの言葉の前には「西洋人にとっては」の一文が必要なのではないだろうかという気がするのだ。
つまりヨーロッパから至近であるこのリゾートは、当然ヨーロピアンに馴染みのある観光地なのだから、彼らにとってはこの海が最も美しいと思うのは当然だろうと思うのである。
しかしインドネシアやフィリピンの、あの無数のカラフルな小魚の集合体の美しさや、あるいは色とりどりの珊瑚のまた様々な形状の妙、さらには体長1mを越えるナポレオンフィッシュやウミガメの出現率の高さ(しかもシュノーケリングでさえ)といったものと比較すると、明らかに紅海の方が貧相であることは否めない気がするのだった。しかもさらに特筆するべきことは、あちらでは、そういった「超高品質」の海が、すぐ目の前のビーチに広がっているのである。
紅海の海は確かに非常に美しいのだが、西洋人の高い評価ほどではない、というのが率直な私の感想なのであった。
要するにかなり手前味噌な評価なのだろうと思うのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ブルーホールで見かけた観光用ラクダ。本多勝一氏はラクダの鳴き声を「ゲロゲロ」と表現していたが、このラクダは「オエーッ」と、いまにもゲロを吐きそうな鳴き声だった。実際に気に入らないことがあると乗り手を振り返って胃の内容物(つまりゲロ)をぶっかけることもあるという。私も是非習得したい特技である。
 
10月20日(金)
読書三昧
 
本日はなにもしないで部屋で読書。
 
『言語学とは何か』(田中克彦 岩波新書)。
なんでこんな難しい本を読んだのかというと、比較言語学に関する入門書だと思ったのである。
でも違った。
内容は専門用語も頻出して、予備知識のある人でないとちょっと理解できない感じ。
それでも「なるほど」と思ったのは、「構造主義」というものが、なぜ言語学から発生したのか。そしてなぜ、まず最初に文化人類学に応用されたのかということである。
「構造主義」という方法論は、学問的な「西洋至上主義」に対するアンチテーゼとして出発したものらしい。
それまでの学問というのは、「ニュートンが新しい法則を発見する」といったように「真理」と「発見者」という立場しかなかったわけだが、言語学というのは言語同士の比較検討によって成り立っている学問なので、より客観的な立場が要求される。
それまでの「西洋至上主義」による解釈では、西洋の言語「インド・ヨーロッパ諸語」が世界で最も優れていることになるわけだが、実際はそうでもないことが判明してきた。
それはおそらくエスキモーの言語に、「雪」という表現が五十も六十もあることからも理解できるだろう。実際にアメリカの言語学者によるインディアンの言語研究がその端緒であったという。
つまり言語に優劣は存在しないことを前提としたところから、研究対象を相対的に把握しようという試みが始まった。
「構造主義」というものが、簡単に言えば、相対的、客観的なものの考え方を主張する学問的な方法論であるとすれば、それは言語学にとって不可欠なものであったのだった。
そして言語が民族文化の基幹であることを考えれば、この方法論が文化人類学にまず影響を与えるのは当然のことであった。
レヴィ・ストロースがアマゾンの未開部族と西洋の間に、文化的な優劣を認めなかったのも、この流れを汲むものであったことは当然なのだった。
 
 
クレオール語というのは、アフリカからの奴隷たちと白人支配者とのコミュニケーションを円滑にするために、便宜的に使用されていたカタコトの言葉「ピジン語」が、世代を重ねるに連れて定着していった新しい言葉なのであった。当然この言語には、支配者層からの侮蔑感情が存在するわけである。
この前段階の「ピジン語」というものが、パプアニューギニアでは公用語になっているのだが、これはどう理解すればいいのだろうか。
英語をネイティブとする、たとえばオーストラリア人などからすれば、パプア人が話す言語は侮蔑の対象なのは間違いないわけである。
おそらくパプアには二十世紀になって大量の物資と情報が、まるで洪水のように流れ込んできたのである。だからそれを租借する時間など当然なく、従ってすべて原語のまま使用されることになった結果なのだろうと思う。
パプアは世界でも類がないほど激烈に社会が変化にさらされた国であると思う。
そこにすべての悲劇の原因があるのは明らかなのだった。
 
この「ピジン語」というものは、外国人同士が会話する際に便宜的に使用する言葉も含められるという。例えばタイ人を相手に会話するときに話す我々の英語も、要するに「ピジン英語」なのである。
前にも書いたけれど、「時制変化や人称変化を無視した方が相手に通じやすい」という、このこと自体が、「ピジン語」の要件を満たしているのである。
しかし英語が国際共通語としての地位を確立した段階で、英語の世界的なピジン化が決定されたと言ってもいいだろう。とすれば、ネイティブの英語を話す人口よりも、ピジン化された英語を話す人口の方が、はるかに多くなっているのが現在の状況なのではないだろうか。
そうすると本来の英語よりも、ピジン英語の方が、今や世界のマジョリティーとなっている言ってもいいだろう。
 
 
日が暮れてから、ようやくメシを食いにホテルを出る。
夕食は昨日と同じくコシャリ屋。
ひとり3ポンド。激安である。
このコシャリと、昼間に食べるビスケット、パン、牛乳、飲料水などを総計しても、だいたい一日ふたりで30ポンドちょっとくらいで済んでしまう。
安上がりである。
昨日から、食後はネットカフェ&シーシャ屋で一服というパターンが定着してしまっている。ネット屋が一時間4ポンド。シーシャとチャイ二杯で7ポンド。
従って酒さえ飲まなければ、これらを加えても、一日50ポンド、つまり千円未満でおさまってしまう。ホテル代30ポンド(600円)を合計して、一日1600円。
ひとりあたり800円である。
ダハブに貧乏旅行者の長期滞在者が集まってくるのも頷けるのである。
おそらくタイのピピ島あたりでぐうたらしているのと、さほど出費はかわらないだろう。
 
インドで買って以来、ずーっと持ち歩いているリキッド式蚊取りマット。しかし。パキ以西の国は、すべからくコンセントが「タテ位置」なのであった。だから一度も使っていない。……いつ捨てようか。
 
 
ネット屋では、彩流社編集者のK氏から返信があり、謝罪に関する件がおおむね落着したとのこと。なによりである。
いったんホテルに戻って日記を書く。
十時半にセブンへ分ホテルのスキューバダイビングのイントラZ氏と約束していたので、その時間に出かけてみる。
私の読了した本を寄付&めぼしい本があったら交換してもらおうというのであった。
Z氏は本来バックパッカーで、四年もダハブを起点にしてあっちこっち旅行しているとのこと。年齢はおそらく嫁と同じくらいの三十代前半だろう。
飄々としていて、好感の持てる人である。
彼と旅の話をしているうちに、ずいぶん時間が経ってしまった。
十二時過ぎまでお邪魔して、またの来訪を約束しておいとまする。
帰りに酒屋でワインとビール二本購入。ワインは昨日は一本45ポンドと言っていたのに、今日は50ポンドだという。しかも同じ店員なのである。
そのことを詰問すると、
「わかったわかった。45ポンドでいいよ」
最初から高いことはわかっていたのだが、おそらく買いに行った時間が遅かったので、さらにふっかけたのだろう。
合計57ポンドだが、細かいのがないというと、
「じゃあ明日1ポンド持ってきてくれ」
どうせ最初からふっかけているのだから、よしんば私が1ポンド踏み倒したとしても、向こうはたいして損はしないのだろうと思われる。
ホテルに戻って、二時くらいまで飲んだくれる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ダハブの夕日。ビーチは東に面しているので、背後のシナイの山々に日が暮れていく。だから日没は案外早く訪れる。日が暮れると同時に気温が一気に下がり、風のある日は肌寒いほどだった。
 
10月21日(土)
自堕落な一日
 
本日は起きたのが二時であった。
ああ。だんだん時間がずれていく。
そしてその最終形態は、朝のアザーンを聞いて就寝、起きるのが午後三時という、日本で暮らしていたときとかわらない怠惰な生活なのである。
案の定、二日酔いであった。
ぐったりと疲れが身体の芯に蓄積されているような状態で、ダラダラと本を読む。
 
『鳥葬の国 秘境ヒマラヤ探検記』(川喜田二郎 講談社学術文庫)。
ネパール北西部の秘境トルボ地区の探検行だが、その学術的な成果の言及よりも、メインは苦労話で、それが非常に面白い。フィールドワークの実際や、チームワーク、リーダーの心得など。
隊長の著者が自ら厳しく律していたことは、決して怒らないことだったそうである。
リーダーが感情的になってはいけない。感情的になるのは下っ端の役目なのである。どんなにシェルパが怠けていても、叱るのは隊員でなければならない。隊長が怒鳴るの最後の最後なのである。
 
この本は1960年初版で、まだ外貨持ち出しが厳しく制限されていた時代であった。
だから物見遊山で外国に出かけるということは、ありえなかった。
この探検行は学術調査のために計画されたのであるが、しかしその根底にあったのは、まず第一に「日本を出て外国に行きたい」という強い衝動であったようだ。
今のように学生がアルバイトをして数万円も貯めれば海外旅行に行けるのとはまったく違う時代なのであった。
 
この本の中で印象的だったのは、チベットの僧院で修行する小坊主の話である。
小坊主たちは家庭から隔離されて、一個人として鍛え上げられ、一方では共同生活の中で社会性を身につける。
収穫の季節になると、川を隔てた村に戻って家業を手伝うのだが、この時には久しぶりに母親に会うことができて、団子や握り飯をもらうことができる。この時、チベット人の母親は我が子を溺愛し、我が子にしか食物を与えない。
 
「そしてそういう訓練が必要なのは、その反対のものが彼らの中にあるからかもしれない。わが子にだけしかオニギリをやらぬ母親があるからである。息子にとっては、涙が出る母親であろう。しかし、そのオニギリをそばで見ていなければならないほかの小坊主にとっては、それは世の親の持つ残酷なエゴイズムではないか。私は、はしなくも、若者組も、兵役も、学生の全寮制度もなくなった日本を思い出して、いささか暗澹とした」
 
まさに現在の日本の問題点を予見している文章ではないだろうか。
親の「残酷なエゴイズム」しか知らないままに育った人々が、日本をいびつにしているのが現在なのではないだろうか。
私はかつて韓国の軍隊について勉強したことがあるのだが、著者とまったく同じことを思った。
軍隊によって、すべての若者は好むと好まざるとに関わりなく平均化されるのである。
そこではあらゆるわがままは制限される。集団主義をたたき込まれ、自分の殻に閉じこもっていることは許されない。
上官の命令には「わかりました!」以外に答えてはいけない。
善悪の判断は上官が決めることであるという理不尽を知る。
そうやって二年半後には、まるで人が変わったように立派になった息子が帰ってくるのである。
徴兵制度の是非は、軽々しく判断はできないだろう。
しかし軍隊生活で若者が肉体的、精神的にたくましくなることは間違いのない事実なのである。
 
それでなんとなく思い出したのが、イランの若者であった。
Oさんによると、イランにも徴兵制があるという。
おそらく二十歳前後の若者に科せられるのだろうが、考えてみれば、バイクで二人乗りをして、外国人をからかって走り回っているのは、徴兵前の連中なのではないだろうか。
そいつらは、たいがい高校生くらいで、一番調子に乗っている頃の連中なのである。
おそらく軍隊に行って上官に叱りとばされ、世の中の理不尽を知った連中は、そういうバカはしなくなるのだろうと思われるのである。
 
 
夕食は近くの「ぐるぐるチキン屋」。半分チキンとごはんとスープなどのセットで15ポンド(300円)という安さで、いつも繁盛している店であった。
ダハブの海岸沿いのシーフードレストランはすべからく閑古鳥が鳴いているのだが、一本内陸に入った、このあたりのレストランの方が客の入りがよいのは、要するに安いからなんだろうと思われる。
 
 
このレストラン「キング・チキン」はハーフチキンとご飯、パン、スープ、サラダなどで15ポンドと破格に安いのだが、しかし毎日は食べられない。これが私にとっての、この国の料理に耐えられる限界なのだろうと思った。魚が食べたい……。
 
 
ダハブは、私にとってはなんだか居心地の悪い町である。
リゾートというのは、どこに行っても同じような雰囲気ではある。
派手なネオンが建ち並び、クラブミュージックやレゲエが地響きのように鳴り響き、酒に酔った若い西洋人旅行者たちの乱痴気騒ぎが朝まで続くという、タイのリゾートでおなじみの風景である。
そういうところにいると、私は泥酔した白人たちの間で立ち働くタイ人従業員の、まるで仮面のような無表情が、目について離れないのである。
ダハブでは、そういった現地人労働者と客である白人との、ある種の「乖離」は、少ない気がする。しかしそのぶん、エジプト人の白人観光客に対する「おもねり」のようなものが目つくのである。同時にその如材ない笑顔の下に隠された、したたかな計算のようなものも感じずにはいられないのである。
しかしそういうこととは別の、もっと射すくめられるような居心地の悪さが、この町にはあるような気がするのだ。
その理由が今日、このチキン屋で食事をしていてわかった。
我々が食事をしているテーブルの後方に、西洋人のひと家族が食事をしていたのだった。彼らはこのビーチのどこにでもいる、ありふれた白人の一家族だったのだが、彼らは我々が席について、食事を注文し、それが運ばれてくるまで、私のことをほとんど目を離さずに、じっと観察しているのだった。
観察という言葉は適当ではないのかもしれない。
まるで珍奇なものを眺めるかのような視線なのだった。
そして私が彼らに気がついて振り向くと、視線をそらすのだった。
それが単に東洋人が珍しいことによるのか、それとも知人の某編集者が話してくれた、北欧のレストランで、同じように地元客にじろじろと見られ、それが、
「厨房で働いているはずの中国人が、なぜこんなところに座っているのだろうか」
という視線であったという、それと同じ視線であったのか、私には判断はつきかねるのである。
しかしそういう人々と同じような好奇な、というよりも、自分たちと違った「異物」を見るような視線は、この町の至るところで感じる類のものなのであった。
それはダイビングショップの受付の前でたむろしている白人からの視線であったり、シーシャ屋で金を払っている我々に対して投げかけられる、道を歩いている白人からのものであったり、今日のようにレストランの隣の席からであったりするのだが、その「痛い視線」は、折に触れて、この町のあちこちから発せられて、私を射すくめるのだった。
それはタイやフィリピンのリゾートでは感じたことのないものなのだった。
アジアまでやって来る西洋人にとっては、東洋人はもちろん珍しくもないわけだが、紅海という西洋から至近のリゾートでは、東洋人はいまだに珍しいというのもあるのかもしれない。
しかしもうひとつ気がついたのは、そういう珍奇な視線を送ってくる人々は、概してタイのリゾートにたむろしているような、若くて貧乏な、従ってリベラルな旅行者ではなく、ある程度裕福な、上流とは言わないまでも中流以上の、年配の、従って保守的な人々である場合が多いのである。
そういう人々にとって、日本人のような東洋人は出稼ぎ労働者でしか見かけたことのない下層の人々という印象が根強いのではないだろうか。
そしてそういう貧乏であるはずの連中が、自分たちと同じようなサービスを享受する立場にいることが、不思議なのではないだろうか。
彼らの視線は決して敵対的なものではないのだが、そういった素朴な疑問を含んだ好奇の視線なのであった。
ここはすでにヨーロッパの一部なのであり、我々はその中では、どちらかというと「差別される対象」なのだが、かといって明白な下層労働者とも違う「異質な存在」なのではないだろうか。
それが私が、ここ数日で強く感じたことなのであった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日韓の旗が目印の「太陽食堂」の夕食。味はまずまずだが、コストパフォーマンスは抜群である。いつも長期滞在の日本人が読書したりバックギャモンをしたりしている。ここでふかすシーシャは最高。
 
10月22日(日)
ダハブの猫
 
ダハブにはことのほか猫が多い町である。
ビーチ沿いのレストランを始め、ホテルの敷地内にも必ず数匹の猫がいる。
港町というのは、すべからく猫が多いわけだが、とりわけこの町に多いのは、車の通りが大きく制限されていることも関係しているのかもしれない。
マホメットが猫好きだったと伝えられているので、イスラムの国では概して猫は大事にされるという。大事にされるとはいわないまでも、野良犬と違って「存在を認められている」と言った方が妥当だろうか。
とはいっても人になれているのは、そのうちのごく少数で、多くは警戒して近寄ってこない。あるいは食事が運ばれてきたときだけ、なれなれしく近づいてきて「おねだり」をし、あらかた食べ終わってしまうと、プイと行ってしまうのである。
今日は茶虎のメス猫がついに部屋に入ってきたので、ビールの王冠に牛乳を少々注いで飲ませてやったら、出て行かなくなってしまった。
今も戸口のところで行儀よく座って、こちらの一挙手一投足に注視している。
 
数日前から部屋の窓から数匹の猫が覗き込んでいるのを何度も目撃した。
そのうちの一匹が、憎らしいことに窓枠に小便をひっかけて行ってしまった。
その夕方に昼寝をしていると、いきなり枕元に何かが落っこちてきて、びっくりして飛び起きたら猫だった。向こうもびっくりしたようで、私が飛び起きると同時に、窓に飛び上がってそのまま逃げていった。
この間は、嫁がひとりでいるときに猫が忍び込んできて、嫁がいるとわかると、あわてふためいて部屋中を走り回り、壁と天井の隙間から隣の部屋に逃げていったという。
隣の部屋は施錠してあるので、猫が閉じこめられると大変だと思って、ホテルの従業員に伝えると、
「大丈夫、天井を伝って逃げたよ」
そう言って部屋も確かめようとしないのだった。
その晩になって、開いてみる窓から、件の猫がひょっこりと顔を出した。やはりうまく逃げおおせたらしいのであった。
そういうわけでダハブは猫の多い町なのである。
 
 
ビレッジにも猫は多い。たいていゴミ箱を漁っている。配色は日本のとまったく同じで、白、黒、茶、三毛、トラなど。顔もほとんど同じ。むしろタイやイランの方が細面である。
 
 
本日は十一時に起きて読書。
コーヒーを飲みながらビスケットとみそ汁で軽い朝食を取り、シュノーケリングに出かける。
本日はずいぶん風が強くて、目の前のビーチはエントリー禁止らしい。十五分ほど歩いた先の入り江なら大丈夫だということなので、そこまでブラブラ歩いていく。
そのあたりは砂地が三十度ほどの傾斜をなしており、遊泳やダイビングの講習にはちょうどいいところなのである。入り江なので波も高くない。沖にはウインドサーフィンがふたつほど見える。
しかし砂地なので潜ってみてもたいして面白くなかった。
小さなボートが沈船になっていて、そのあたりに小魚が集まっている。少し先には珊瑚の集合体があり、そのあたりにはミノカサゴが群生していてなかなか見応えがあったくらい。
一時間ほどで寒さに耐えきれず上がる。
風が強いのでさらに寒い。やはり十月も半ばを過ぎていると、この南国でも秋が深まっていることを実感するのだった。
ホテルでホットシャワーを浴びて、ネットカフェに行き、例の謝罪文に関するデータを阪口に送るなど。
夕食はビーチ沿いで見かけた「日の丸」と「太極旗」が掲げてある「太陽食堂」に行ってみる。
「ラマダンって終わったんですか?」
「終わったと思うよ。オレはムスリムじゃないからよく知らないけどね」
「じゃあビールも飲めるんですか?」
「うちでは出してないけど、あっちの酒屋で買ってきてセルフで飲むんなら勝手にしていいよ」
だそうである。ここのオヤジは我々がまだ店にいるにもかかわらず、
「オレは寝るけど、あとは勝手にしていっていいから。電気は消していってくれよ」
といってさっさと帰ってしまうという、非常にルーズな店なのである。
 
それよりももっと驚いたのは、おそらくキリスト教徒であるこのおじさんが、隣人のムスリムたちの、一年で最も大きなイベントのことについて、まったく無頓着であることだった。
ひとりでもムスリムの友人がいれば、彼の生活のリズムが完全に逆転してしまうこの一ヶ月の宗教行事について、なんらかの知識を持っていて当然ではないだろうか。
たとえ相手にしている客の大多数が外国人であったとしても、である。
エジプトでは十人にひとりくらいがキリスト教徒なわけだが、案外こうやってお互いに無関心なものなのだろうか。お互いの宗教についての話題はいっさいタブーなんだろうか。
などと不可解な疑念がいくつか沸き上がってきたオヤジの言動なのであった。
 
しかし後でよく考えてみれば、お互いの宗教について無関心であることの方が、実際の生活を営む上では、むしろ重要なことなのかもしれないと思ったりした。
これほど激しい宗教戦争が、長年に渡って続いている地域なのである。
互いの教義に首を突っ込んで、いちいち批判などしようものなら、ケンカならまだしも暴動に発展してもおかしくないような情勢なのである。
互いに無関心であることが互いのためなのであり、実はそこに大きな緊張が存在していることを、私は認識したのだった。
 
 
近くの酒屋に空きビンを持っていくと、1ポンド引いて、一本5ポンドで売ってくれるということも、ここのオヤジさんに聞いて知ったことだった。
三本買ってきて、しかもぬるかったのだが、チビチビと飲みながら、夕食のピザとイカ野菜炒めごはんのようなものを食べる。
味は普通。しかし値段からするとボリュームは十分。食事だけで37ポンドで済んだ。
食事のあともソファにごろりと横になって、まったりとビールを飲みながら海を眺める。
なんとダイビングから帰ってくるダイバーの懐中電灯の光りが、海の中から光って見える。
「あんなつまんないことよくやるよね」
と話ながら、いつの間にか寝てしまった。
平和な一日だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ダハブのダイビングは、私の見た範囲では、「二本で40ドル」が一番安かった。一本20ドルは、おそらく世界最安値のタイに匹敵する値段だろうと思う。しかしシュノーケリングのお手軽さにすっかり馴染んでしまった我々は、もはやダイビングには食指が動かないのだった。
 
10月23日(月)
ダイビング会社の欺瞞について考える
 
紅海の海が、西洋人の高い評価ほどは美しくないのではないかというのは前に書いたけれど、それでもこの町が、スキューバダイビング産業で成り立っていることは言うまでもない。
スキューバダイビング産業というのは、おそらく非常に利益率の高い業種なのではないだろうか。設備投資には少々金がかかるのかもしれないが、それ以降は、集客のメドさえつけば、たとえ途上国であっても、ひとりあたり数十ドルという、高い収益率が保障されるのである。
これに付随して宿泊施設や食事施設でも収益が見込めるわけだから、スキューバダイビングを中心としたリゾ−ト産業が、いかに大きな利益を生み出すかが理解できるだろう。
 
スキューバダイビングに依存しているのは、当然この町に限ったことではない。
世界中のビーチリゾートには、例のスキューバダイビングの会社の、赤地に白い斜め線の旗が目に留まるのである。
私がスキューバダイビングのライセンスを取得したのは、すでに十五年以上前のことなのだが、当時すでにこの会社は世界唯一のブランドを確立しつつあったと思う。
しかし私の友人がいみじくも指摘したように、彼らが発行する「ライセンス」は、実は「ライセンス」(免許)などではなく、ただの「サーティフィケーション」(証明)なのである。
つまりこの民間会社が、ある技能を証明したに過ぎず、公共機関が承認を与えたわけでもなんでもないわけで、実はそこにはなんらの権威もないのであった。
よく考えてみれば、この会社が発行する「ライセンス」がないと、機材を担いで海に潜ることが禁止されているわけでもなんでもないのである。
個人で、それらの必要な機材と圧搾空気の詰まったボンベが用意できれば、どこで潜ろうと勝手なのである。
しかし実はこの圧搾ボンベが問題なのであり、ここにこの会社が目をつけたのは炯眼であったというべきだろう。
つまりいくら機材が準備できても、圧搾空気を詰めてくれるのはダイビングショップなのである。つまりダイビングショップを経由しないと空気を詰めることができず、従って結局は、この会社の「ライセンス」なるものの提示を求められるのだった。
しかも「ひとりで潜ってはいけない」だの、「インストラクターをつけろ」だの、「十何メートル以上潜るな」だのと、様々な制約をつけられるわけである。
もちろんそのようなことを守ることで、ある程度の安全が確保できることは明らかなのだが、しかし絶対的なものでは決してないのである。
それこそ「自己責任」というもので、本来は、やろうと思えば勝手に、ひとりで何時間でも、何十メートルでも、もちろん健康を害さない限りにおいて、潜れるはずのものなのである。
この会社は、そこに一定の権威を確立することに成功した、この業界唯一の企業だろう。
それはおそらく、世界中のダイビングショップに、あの重い圧搾空気ボンベのシステムを普及させ、本来は「証明書」であるものを「免許」という、いかにも公的であるかのような権威を定着させたことによるのだろうと思われる。
 
以前に確かホンダか日産だったと思うが、超小型の圧縮空気ボンベを開発したという新聞記事を読んだことがある。
写真が掲載されていたのだが、レギュレータを一回り大きくしたくらいの、背中に背負う必要もないというサイズで、軽量化にもかなり成功したはずなのである。
しかしその後、実際にこのボンベを使用している人をまったく見かけないのは、この新型ボンベがまったく普及することがなかったことを物語っているのである。いや、もしかしたら「普及させてもらえなかった」と言った方が適切かもしれない。
かつてエジソンが白熱灯を発明して、その後ほどなく蛍光灯が発明されたにもかかわらず、それがなかなか普及しなかったのは、他でもない、すでにゼネラル・エレクトリック社を創立し、実業家として成功していたエジソンによる圧力のせいであったという歴史的事実を考えれば、それは当然のことなのである。
すでに膨大な店舗網と権威を確立してしまったこの会社が、そう簡単に組織の根幹にかかわるような新技術を認めるわけにはいかないのである。
しかし私は、あの重い重い圧搾空気ボンベを背負って歩く苦労を思い出すとき、このスキューバダイビング会社の営業上の都合だけで、ダイバーに益する画期的な発明が握りつぶされているという事実を、苦々しく思うのである。
 
 
権威というものについて考えるとき、それがいかにいかがわしいものであるかということを、私はよく思うのである。
この間の、四方田犬彦氏の『ソウルの風景』にチラリと書いてあったが、ノーベル賞という北欧の密室で決定される権威を、金大中元大統領がずいぶん前から狙っていたという話は、私も当時のソウルで、何人かの韓国人に聞いたことがある。彼らがずいぶん批判的であったことが驚きであり、一方でこの国の人々に根付いている体制批判の精神と言論の自由に感心したものであった。
 
志賀直哉という作家は、ノーベル文学賞受賞の打診があったときに、
「そんなもんいらん」
と断ったそうである。その結果、川端康成に受賞がまわったという。
同じように文学賞を受賞した大江健三郎という人は、ただただ、
「ありがたいことです」
という言葉を繰り返していたのが印象的だった。おそらくこの人も、この賞の欺瞞というものについて、内心は忸怩たるものがあったに違いない。
金大中氏も、ノルウェー王国の要人を何度も韓国に招待して、接待に余念がなかったという。同じことは沖縄返還で平和賞を受賞した佐藤栄作もやっていたという。
何百億円も隠し資産を貯め込んでいたアラファトが、同じように平和賞を受賞している。
いったいなんのための賞なのだろうか。
おそらく権威というものは、いつの間にか「権威を維持するのための権威」になってしまうものなのだろう。
映画のアカデミー賞や、あまたある文学賞、世界遺産、あるいはオリンピックやワールドカップとったスポーツの祭典。
これらに共通しているのは、主催者の利害と都合によって、きわめて政治的に、その受賞者が決定されていることである。
しかしそんなことを、ちまちまと考えていても楽しくないのも事実なので、特にオリンピックなんかは深く考えずに、選手の健闘に拍手を送っているのが一番なのである。
 
 
マシュラバビーチには、このようなお洒落なカフェがズラーッと並んでいる。ラマダン中は、いずれもまったくの開店休業状態だったのだが、明けると同時に観光客がどっと増えた。二週間も滞在しながら、こういう高そうなレストランには、ほとんど入らなかった。ああ。貧乏って嫌ね(笑)。
 
 
本日は寝坊したかわりに、よく寝た。  
十二時間たっぷり寝たので、非常に元気である。
午後一時に起きて、ビスケットとインスタントラーメンを食べて、本日の海のコンディションを聞きに行く。
「ダメだね。波が高くて危険だよ」
ということで、泳ぐのはあきらめて海岸沿いのレストランに本を持って移動。
チャイとビタミン不足なのでフルーツサラダを注文してまったりと読書。
読んでいたのは『文章読本』(三島由紀夫 中公文庫)。
文章の観賞方法について、また「格調高い」文章の書き方についての指南書。
・擬音語は使用するべきではないという。擬音語というのは、事物を事物のまま人に伝える作用しかなく、「言語の堕落した形」なのであるという。
左様ですか。失礼いたしました。
・「彼女」という言葉は、いまだ日本語として熟していないので、あまり使用しない。
なるほどそうかもしれない。
・「僕」は日常的なぞんざいさと、若さを衒っている感じがするので使わない。
確かに私も「僕」は使わない。一時期使ったけど戻った。
などなど。
三島由紀夫の「文章の最高の目標」はズバリ、「格調と気品」であるという。
そしてそれは古典文学にたいする深い造詣から発するものらしい。
三島は森鴎外の簡潔明瞭で男性的な文体にあこがれたという。
森鴎外は文章の秘伝として、
「一に明晰、二に明晰、三に明晰」
という言葉を残しているそうだ。
確かに簡潔な文章の方が難しいのは、実際に文章を書くことを生業にしている人なら誰でもわかるだろう。例えば、
「新宿の雑踏の中で、十年ぶりに友人と再会すること」
を、別の言葉で言い換える必要があるときに、多少とも熟語の知識がある人なら、
「彼との邂逅」
という簡単明瞭な文章に置き換えることができるわけである。
簡潔な文章を書くためには、こういう無限の熟語の知識が必要になってくるのである。
 
斜め読みしたので、一日で読了。
ちなみにこの本はセブンヘブンのZ氏からの借り物なので、返さないといけない。
日が暮れてきて、読書が辛くなってきて、部屋に引き上げる。
それから食事。
昨日の「太陽食堂」に出かける。ミックスグリル定食。二人前で35ポンド(700円)と激安。
食後はチャイとシーシャでまったりと過ごす。
本日は韓国人、日本人客が数人たむろしている。他の派手なネオンの、客引きが立っているような高級シーフードレストランが、ほとんど閑古鳥状態であるのと比べると、このきわめていい加減な経営の食堂が、そこそこに儲かっているのが、なんだか痛快であった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここ数日は風が強くて、海に入れない日が続いた。空は限りなく快晴なのに、サウジから吹いてくる風だけが、椰子の葉を激しく揺らした。白波の立っている日は遊泳禁止である。
 
10月24日(火)
ラマダン明けの休日
 
昨日から、地元の子供たちをよく見かける。
小学生が走り回り、年若い少女たちが、華やかな民族衣装を薄手のチャドルで隠しながら、連れだって歩いているのをよく見かけた。
昨日、雑貨屋のオヤジと客の白人女性の会話が耳に入った。
「ラマダンは終わったの?」
「はい。昨日終わったんですよ」
そうだったのである。日曜日で、長かったラマダンが終わったのであった。
ラマダン明けの三日間は祝日で、盛大なお祭りが行われると聞いたことがある。今日はその二日目に当たるのであった。だから学校も休みなのだろう。
このあたりでは最もお洒落な町であるマシュラバのビーチに、若い人たちが繰り出してきたのだ。
ラマダンの頃には、夜になると黒いチャドルにブルカをつけた女性たちがそぞろ歩いているのをよく見かけた。
飲食がいっさい禁じられている日中には、彼女たちは家に引きこもって、日が落ちるのをじっと待ちわびているのである。明けてしまうと、その禁も解けて、連れだって歩くことができるのだった。
家族連れの姿も目立った。数人の子供たちを連れ、乳母車を引く父親と、赤子を抱いた母親が、ビーチ沿いの遊歩道をそぞろ歩いているのである。エジプトの中流か、それ以上の家族である。こういう姿は微笑ましいものである。
しかし私は、どうしたわけか、その幸福を絵に描いたかのような姿に、一種の影を見てしまうのである。
この幸福そうな家族の暮らしを一身に背負っている父親の財布には、いったいどれほどの紙幣が挟まっているのだろうか。その中に100ポンド(2000円)紙幣が、いったい何枚、含まれているのだろうか。
彼らの平均年収は、おそらく千数百ドル足らずなのである。ということは月収にして、よくて200ドル程度の稼ぎしかないのである。
ひるがえって私は、この界隈に点在する高級シーフードレストランで出される「ミックスシーフードグリル」の値段が70ポンド(1400円)であることを知っている。
だからこのビーチ沿いのレストランで家族で食事をするならば、あっという間に、この父親の月給の、三分の一もの金が飛んでいってしまうのである。
子供たちに囲まれて幸せそうに歩いている、そして実際幸せであろうこの父親だが、実際には彼にとっては手も足も出ないほどの高級料理店ばかりが並んでいるのが現実なのだった。
そういう、考えてもしかたのないことを勝手に想像してしまい、勝手に気が滅入るのである。
私はいくつかのレストランのメニューに、
「地元客は25%割引」
と書かれているのを見たが、それは当然というべきことだろう。ただでさえ法外に高い外国人料金に設定されているこの界隈のレストランなのである。
しかしZ氏によると、それでもダハブはシャルム・エル・シェイクよりも、ずいぶん安いそうである。そして高いとはいっても、ダハブはエジプトの富裕層の手が出るクラスのリゾートなのだという。
そう考えるとシャルム・エル・シェイクというエジプト随一のリゾートが、いかに常識を逸脱した、異常な物価であるかがわかるというものである。
ガイドブックによると、その理由は、上記のようにイスラエルからの観光客が多数訪れることと、イタリアからの直行便が飛んでいるためであるという。
フィリピンのマクタン島や、行ったことはないけれども、メキシコのカンクンなどもそういう事例のひとつなのだろう。
これら三つのリゾートは、いずれもひとつの共通点で一致しているのである。
すなわちマクタン島は日本に近く、カンクンはアメリカに至近であり、そしてシャルム・エル・シェイクはヨーロッパから至便の立地条件を持っていることである。
つまりいずれも、一部の金持ち先進国から非常に便利のいい立地に位置するリゾートなのである。こういったリゾートでは、本国の物価に限りなく近づいていくという傾向があるのだろう。
こういった高級リゾートのいびつさ、現地人が外国人に一方的に奉仕するといういびつさが、私にはなんだか息苦しく感じるのだった。
 
またこの町にはロシア語表記がよく目につくのだが、Z氏によると、それはロシアや東欧からの旅行者が多いことによるのだった。
彼らにとってもダハブという町は至便であり、しかも手頃な物価のリゾートなのに違いない。
 
 
昨日と今日で、空いていた二室に客が入り満室となった。
ひとつには上品な感じのドイツ人中年女性が、もうひとつには嫁の目撃によるとアラブ人男性であるという。
おそらくラマダン明けの連休で、エジプト各地から遊びに来ているのだろう。
エジプトだけではなく、おそらくサウジアラビアの人々も見かける。エジプトではほとんど見かけない白いアラブ服に赤いモスル織りのターバンを巻いた男たちが目立つのである。
酒を飲みに来たのだろうとか、裸の女を見に来たのだろうとか考えるのは失礼というものである。
しかしイエメンにカートを食いに来る人もたくさんいるらしいから、飲酒目的で来る人も少なからずいるに違いないと思う。
 
そんなことで、本日もボケッと過ごした。
海は少し凪いできたので、今日こそ潜りに行こうと追ったが、嫁が数日前に、おそらくクラゲに刺されたと思われる胸の傷がひどくなってきて、見合わせることにする。
左上胸部に青黒い傷ができていて、手のひらほどの広さのその周囲が真っ赤に腫れ上がっているのだ。けっこうひどい毒にやられているに違いない。
その後、友人の薬剤師でダイバーのH氏に聞いてみたところ、抗生物質を飲んで、かつステロイド剤の入った軟膏を塗ればいいということで、幸いいずれもインドで買っておいたものがまだあったので、さっそく塗ることにした。
 
そんなことで昼食を近くの食堂でゆっくりとってから、いつもの太陽食堂で、チャイをすすりつつまったりとシーシャ。
途中でセブンヘブンにシュノーケリングツアーについて尋ねてみると、
「明日の十時半に来れば、適当に人数を集めてブルーホールに行ってやるよ」
という。値段は機材レンタル込みで30ポンド(600円)。ただしマスクと食事は自弁である。
 
そのまま夕食までずーっと横になって読書をしながら過ごす。
 
 
ビーチ郊外のショッピングモールもテナントがまったく入っていない。ちょっとビーチの外に出ると、なんだかゴーストタウンのような風景が広がっている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ブルーホールのエントリー。お客さんはほとんどが団体観光客の家族連れで、なんとなくイタリア人が多かったようだ。
 
10月25日(水)
ダハブ名物「ブルーホール」
 
ダハブのダイビングスポットとして最も有名なポイントが「ブルーホール」である。
町の北にあり、海岸からはダハブの町が見晴るかすことができるので、おそらく5キロちょっとの距離だろう。
周辺にはダイバーと、シュノーケリングツアーの団体客がわんさか群れている。
どちらかというとダイバーの方が少数で、シュノーケリングの家族連れが多い。
意外だったのはエジプト人の家族連れもけっこういたことである。もちろんキリスト教徒だろうが。
十時半に約束をしていたので、違わずにセブンヘブンに行くと、
「まあお茶でも」
と言って延々と待たされる。ダイビングに出かけた車が戻って来ないのと、他の客の準備ができていないのと、両方のようだ。
結局十二時近くまで、たっぷり一時間以上も待たされてしまった。
それなら部屋で寝ていたかったなあ……ということは今までにも頻繁にあったので、もはやあきらめてはいるのだが。
同行するのは、おそらくイギリス人の若い女の子ふたり組とドイツ人カップル。このうちの男性の方は、アブシンベルのツアーでもたぶん一緒だった。
とはいっても親しく話したわけでもないので、こちらからは話しかけなかった。向こうも途中で気づいていたらしいが、あえて話しかけてこない。すごく微妙な状態である。
もうひとり、やはりゲルマン系の顔立ちの、ものすごく背の高い青年。
小型ジープに詰め込まれて出発。
ジープは猛スピードで突っ走り、一瞬身の危険を感じる。こういう無神経というか、命知らずなところが、おそらく西洋人が現地人を軽蔑する根拠のひとつなのだろう。
前に座っているイギリス人女性の顔が引きつっているのが、車がタイヤを軋ませながら急カーブで曲がった瞬間に見えた。
おそらくベドウイン出身であるドライバーの男性にとっては、車はラクダと同じもので、命を惜しんで安全運転することなど、彼の沽券にかかわるのだろう。
戦闘も略奪もなくなってしまった、現代のつまらない世の中においては、おそらく車でも突っ走らせるくらいしか、彼らが鬱積したものを吐き出す手段はないのだろう。
もちろん巻き添えを食うのは我々なのだが。
 
道中は美しい海岸線を走り、彼方にはサウジアラビアの赤茶けた山の連なりが霞んで見える。手前には高級リゾートのコンドミニアムがいくつも並んでいた。
ブルーホールで遊んでいた家族連れも、おそらくこのあたりのプチリゾートに泊まっているのだろう。
 
二十分ほどで「ブルーホール」に到着。
なるほど陸の上からも、直径60mといわれる円形の岩礁が、。濃紺の海に青白く浮き上がって見える。
車から適当な海の家に導かれて、なんとなくその店に荷物を置くことになった。
後から考えてみると、その店はドライバーの馴染みの店なのであり、おそらくこの男は我々を連れて行くことで、それなりの謝礼を受け取っているはずなのであった。
その金額は、あとから店の主人が請求した、
「食べ物や飲み物を注文しようがしまいが、ひとりあたり20ポンド」
という金額のうちの幾ばくがなのであった。
店の主人は我々に対して、きわめて愛想がよかったが、それがそういう理由によることなど、その時の我々には知るよしもなかったのであった。
 
さっそくフィンとシュノーケルを担いで海へ。
ここには最大70mほどのドロップオフが口を開けているそうである。
ホールはリング上の環礁に囲まれており、内側のリーフはかなり破壊されているが、外洋側のリーフは岩礁に隙間なく張りついていて、その周囲には無数の赤い小魚が戯れているのだった。大きな個体は少ないものの、全体の色彩はすばらしくカラフルであった。
しかも透明度が並はずれて高い。
環礁の内部はいくらか濁っているものの、外洋では30mを越えていたのではないかと思われる。数メートル先を泳いでいる人々の身体の動きが、手に取るように見通せるのだった。
確かに透明感では、紅海の海は他に抜きんでているのは確かかもしれない。
それはやはり、陸を上がるとまったくの不毛な砂漠が広がり、一本の川もそこに流れ込んでいないことによるのだろう。
海面を挟んで、下と上を見比べたとき、生物の営みという意味での明らかな違いに、我々は驚愕するのだった。
海面下でのカラフルな魚と珊瑚の色彩豊かな世界と比べて、陸上のなんと荒涼とした風景だろうか。
そしてまた海というものが、生命をはぐくむ上で、なんと重要なものであるのか。
珊瑚の周囲を群れ遊ぶカラフルな小魚を眺めていると、彼らが母なる海に守られていることを知るのである。
考えてみれば地球上の三分の二を占める海で生きる生物こそが、この星のマジョリティなのであり、肺呼吸を獲得して陸上で生活し、海の中ではもはや生きていくことができない人類のような生物こそが突然変異体であり、この星ではマイノリティなのである。
紅海の海水はいくらか甘い気がした。
 
 
ラクダというのは、よく見ると不思議な座り方をするものである。星座をした状態で前のめりに倒れ込むような感じ。前出の『アラビア遊牧民』にくわしい座り方が掲載されている。
 
 
身体が冷えたのでいったん海から上がると、店のオヤジが、さっきまでの愛想のよい笑顔とは対照的な、しごく無愛想な口調で上述のようなことを言った。
ひとり20ポンド(400円)ずつ、なにかを注文しないと、ここに荷物を預けておく権利は発生しないそうなのである。
高くないか?
その場にいる全員がそう思ったのだが、すでに荷物を預けてしまっている以上、なにも言えないのだった。
巧妙なエジプト人の戦略にすっかり引っかかった我々であった。
しかたなくホットチョコレートとコーヒーを注文して(それぞれ10ポンド)する。
休憩ののちに、もう一回潜りに行って、とりあえず紅海の海には、すっかり満足してホテルに戻った。
 
 
夜になってZ氏に会う。
「どうでしたか、ブルーホール?」
「透明度がすごいですね。でも個人的にはフィリピンの方がきれいだったような」
「フィリピンの珊瑚と比べられると負けますね。あそこは世界一っていいますからね」
「やっぱりそうなんですね」
目が肥えてしまうのも不幸なものだとわかった。
珊瑚礁というのは、海流の関係か、おおむね大陸の東側にできやすいのだという。
紅海もそうだし、オーストラリアのグレートバリアリーフやカリブ海も東海岸なのである。
やはり西洋からの視点で、最も手っ取り早く近かった珊瑚礁が、紅海だったのである。
だからこの海がことさら大きく喧伝されるようになったというのは、おそらく正しい見方なのではないかという気がする。
とはいっても確かに透明度は、我々の乏しい経験ながら、今まで見た海の中でも、飛び抜けて高かったのは間違いない。