ダマスカスのシンボル「ウマイヤド・モスク」。七世紀末に創建され、世界でもっとも古い時期のモスクとして知られる。その様式はアラブ建築に多大な影響を与えたと言われるが、建てたのは正統カリフの裏切り者、ウマイヤ朝である。
 
11月20日(月)
ヨルダン脱出
 
予定通り、七時半に起床して出発準備を始める。
昨夜寝る前に、修理の終わった外付けHDへのデータのバックアップを始めたのだが、起きて見てみると、なんと三分の二しか終わってないのだった。
ということは全部コピーするのに十二時間くらいかかるということか。
目測を誤ってしまった。
写真だけで12GBくらいあるのだが、そんなに時間がかかるものだとは知らなかった。
仕方なくキャンセルして、残りはダマスカスに着いてから行うことにしよう。
 
「八時半にはホテルを出なさい」というサメルの話だったので、その時間にチェックアウト。
部屋のベッドにサメル宛のお金を貼ってきた。
出がけに彼に、
「部屋をチェックしなさいよ」
と言うと、彼は一瞬ののちに、困ったようなうれしいような顔をした。
「シリアから帰ってきたら返しますよ!」
階段の上の方から、サメルの声が聞こえた。
 
補給物資を満載した荷物は、間違いなく今回の旅行でもっとも重かった。三十キロは余裕で超過しているのに加えて、死海石鹸がバカにならないくらいに重いのだった。
それらを、しかもシリアから荷物を送るときに必要になるからということで、送られてきた「郵パック」のダンボールに再び詰め込んで、前に抱いて歩くのだった。
 
タクシーでアブダリのバスターミナルへ。
そこは民間のバス会社が軒を連ねる一帯だった。
サメルがオススメするバス会社のオフィスの前でタクシーが止まった。
尊大な感じのオヤジが言った。
「バスは八時に行っちまったぞ。あとはセルビスだな。9ディナール(1350円)だ」
ぜんぜん話が違うのだった。
サメルは確かにバスは九時半、運賃は5ディナールだと言っていたのだが。
セルビスというのは乗り合いタクシーのことで、中近東ではよく見かける交通手段である。二十分後には出発するという。
「どうする」
「仕方ないから乗るか」
この時はオフィスを出て他のバス会社に当たってみるという発想は不思議となかった。それはあまりにも重い荷物に圧倒されて、無意識のうちにその選択肢を削除した結果なのだろうと、今から思うのである。
 
結局我々はそのセルビスに乗ることにして、尊大なオヤジにしぶしぶ18ディナール支払った。
セルビスをシェアする乗客はすでに決まっていたようで、我々が乗り込むとすぐに乗り込んできた。中年の夫婦だった。
なんだか彼らの数あわせのために我々が乗せられたような気がしてならないのだが、しかしセルビスは九時十五分に出発してしまって、果たして九時半に運賃の安いバスが来たのかどうか、我々には知るよしもないのだった。
しかしおそらく、オヤジはウソをついたに違いない。
 
さすがにタクシーだけに、走り出すとバスよりもずっと速かった。運転手の男は平均速度120キロで飛ばし、一時間後には我々は国境にいた。
出国手続きはスムーズだった。行列待ちもなかった。
しかし出国税なるものを、5ディナール(750円)ずつとられた。
普通は空路で出国するときに徴収されるもので、陸路でとられるのは珍しい。
というよりも初めてではないだろうか。
もともと「出国税」という税金自体が、なんだか得体の知れないものであり、私としてはどうも納得いかないのである。
空港なり港なりの公共施設を使用する「空港使用税」ということなら、まあ少しは納得できる。
空港はたいがい24時間開けてるものだし、電気代とか人件費とか、いろいろかかるのだろうから、仕方がないとも言えなくもない。
しかし陸路の国境で、どんな特別な金がかかるというのだろうか。
深夜に勤務する職員の時間外手当てくらいではないか。光熱費も空港の比較にならないだろう。
やはりこの国は、政府からして外国人からぼったくっているとしか思えない。
おそらくまた戦争でも起こって観光客が激減したら、この「出国税」なるものも、とらなくなるのに違いない。
 
 
そういうわけでディナールが足りなくなったので、仕方なく新たに30ドルを両替して「出国税」を支払う。
カスタムは素通り。
次にシリア国境。
こちらも大変スムーズ。閑散としている。
係官はパスポートのすべてのページをチェックしている。イスラエルのスタンプの有無を確認しているのだろう。
問題なくスルー。
カスタムチェックもかなり適当である。
我々の荷物よりも、同行しているヨルダン人の通関チェックとセキュリティの方が重要らしい。ボンネットを開いて、後部トランクを開いてチェックしている。
ヨルダン人ご夫婦は免税店で大量にタバコを買い込んでいた。
これも一分で終了。
一同晴れ晴れとした顔でダマスカスへ。
運転手はまたしてもかなりのスピードで飛ばす。
国境からダマスカスまで100キロ弱。
こちらも一時間ちょっとでダマスカスの町並みが見えてきた。
市内に入るとたちまち大渋滞に巻き込まれた。
三車線のかなり広い道路なのに、左右は違法駐車の車がズラーッと並んでいるので実質二車線で、しかも割り込みが甚だしい。こんな町で車を運転したら疲労困憊するだろう。
 
 
 
チューインガム売りの少年。ガレージの物売りは子供たちの仕事である。彼は学校には行ってるのだろうか。行ってないだろうなあ。
 
 
 
タクシーは中心街近くのバスターミナルで停まった。
そこから中心街のマルシェ広場まで行かなければならないのだが、道路はひどく渋滞している。歩いても十五分くらいだろう。
歩くか。
私は先のように、三十キロ以上の大荷物を背中に、胸には「郵パック」のダンボールを抱えて歩き始める。
背中のザックは人ひとり入るくらいの大きさでパンパンに膨れあがっている。前にはダンボールである。
この姿は道行く人々にかなり滑稽に見えたらしく、あちこちで、
「中国人!」
という声を聞いた。中国人が商売用の安物の衣類でも担いで歩いているのだと思われたのだろうか。
道に迷いながらも、親切なおじさんに先導されて、ようやくマルシェ広場に到着。
ここまで歩いただけで疲労困憊である。
足に震えがくるくらい荷物が重い。しかもこの町には横断歩道よりも歩道橋が多くて、それらをいちいち上り下りするのがたまらなく苦痛である。
すぐ目の前の通りに行きたいのに、そこに行くにはかなりの、とは言っても普段ならたいした距離ではないのだが、この時には地獄のように長い距離を遠回りして、さらに歩道橋を渡らないとならないのである。
倒れそうになった頃に、ようやく目指すホテルに到着した。
 
そのホテルは「アルハラメイン・ホテル」といって、旅行者の間では著名なホテルだった。しかしマネージャーのおばさんがちょっと怖い感じである。
ぴしゃりとものを言うタイプで、私も嫁も苦手なタイプだった。
ホテル自体はすばらしくきれいで、名刺によると1200年代の建築だという、石造りの立派な建物なのだったが、高いのと怖いのとで明日引っ越すことにした。
一泊700シリアポンド(1400円)。
ホテルにたどり着いたのが午後一時過ぎで、それから郵便物の発送準備。
送り返す書籍や死海石鹸、結局あまり活躍しなかった水中マスクなどを詰め込むと、ちょうど「郵パック」に納まった。
さっそく出しに行こうと思ったが、小包の受付は午後一時までだそうだ。
 
そんなことで、代わりに散歩に出かけた。
このホテルは旧市街の外なのだが、それでも相当古い建物が残っている。戦前はもちろんのこと、オスマントルコ時代の建物ではないかと思われるものが、半分朽ち果てて打ち捨てられていたりするのだった。
しかもそういうのが、なんでもない民家の一部として残っているところがすごい。
カイロのイスラム地区にも相当な年代物の民家があちこちにあったが、この町もすさまじい貫禄である。
湿気が少ないことと、やはり石造りレンガ造りであることによるだろう。
地震は、実はこの一帯にはたまにあるそうだ。
北部のアレッポは大地震で一度崩壊しているというし、旧約聖書のソドムとゴモラの町も地震で壊滅したと伝えられる。一説によるとヨルダン川に沿っている巨大な地溝帯が、アフリカまで続いているそうである。
それが数百年に一度、活断層となって大地震を引き起こすらしいのだ。
 
 
色とりどりの漬け物が並ぶ。ピクルスはたいがいなにを頼んでも付け出しに出てくる。カブとかトウガラシ、ニンジン、オリーブなど。
 
 
 
ダマスカスの街を歩いていると、時折、チベット人かと思うような東洋系の顔立ちの人を見かける。それはエジプトやヨルダンには見られなかったことであった。
この地域はかつて、一瞬だけだけれど、モンゴル帝国に占領されたことがあるわけだが、あるいはその血が、ごくたまに表出されるのだろうか。
トルコに行くとその傾向はさらに強くなって、様々な人種の混交が見られるそうだ。シリアても、すでにその傾向が見られてもおかしくないだろう。
 
この町は古くから交易で栄えてきた都市国家なのだった。
宮崎市定教授が、地中海を瀬戸内海に例え、ベイルートやダマスカスなどの都市国家と堺や京都などの商業都市を対比させたのは、その国家権力から独立した性格をも加味しているのだった。
ダマスカスは歴史上、ウマイヤ朝やセレウコス朝など限られた王朝以外では首都に選ばれたことがなかった。
それはこの地方に、常に反体制的、反主流的な宗教、ビザンチン時代では異端であるマロン派が、イスラム時代ではドルーズ派やシーア派が台頭したことと無関係ではない。
この地域の人々は常に反骨の人々だったと言えよう。
それは戦国時代を通じて独立自尊を貫き、商人の気骨を示した今井宗久や茶屋四郎次郎のような堺や京の商人に通じる、体制に対する反骨精神なのであった。
 
大航海時代以降の新航路の開拓まで、この町は東西交易の要衝として常に大きな地位を占めてきて、国家権力がまず最初に目をつけ、争奪の焦点となる町であった。
しかしこの町の人々は、いとも易々と城門を開放して、新しい権力者に服従するのである。そして歴代の権力者はこの町の特権を認め、大きく介入することはなかった。
つまりこの町の商人たちは常にしたたかに権力におもねり、それを利用して生き残っててきたのだった。
それはやはり戦国時代に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と次々に権力者が入れ替わっても、それらをうまく懐柔して、共存を計ってきた関西商人たちの生き方とそっくりなのだった。
徳川家康が、そういう京、大坂ではない江戸に新首都を定めたように、西アジアの歴代権力者もこの町を首都とすることを嫌った。
それはまさにこの町の人々が持っている独立自尊の精神、反体制的志向によるのであった。
シリアではヨルダンと比べるとまったくと言っていいほど英語の通用度が落ちるのだが、そこにも、もしかしたら欧米主導の世界構造に対する、ある種の反骨精神が働いているのかもしれないと私は思った。
 
 
 
夕食はガイドブックオススメのビールが飲めるレストランへ。
ケバブとレバ焼き、シリア産のビールを注文。
500ml缶が運ばれてくる。
グラスに注ぐ。
ちょっと泡立ちが悪いが、それはまあよくあることなので、気にせず口に運び、一気に喉に流し込む。
「……げ」
まずい。まずすぎる。
こんなにまずビールを飲むのは久しぶりである。
そのまずさを例えて言うなら、
「気の抜けた発泡酒を水で割ったような味」
なのである。
そうとうコーンスターチを加えているらしく、べったりとした甘さが後口に残った。安っぽいビールに典型の味わいである。
そういえばプルトップを開けたときに「プシュッ」という、あの景気のよい音がしなかったよな。
かなりがっかりである。これからずっとこのビールを飲むのかと思うと、なんだかげんなりしてきた。
 
 
今まで飲んだビールの中でも一、二を争う「まずい」ビール、「バラダビール」。なんでこんなにまずのか。誰も飲まないように仕向けているのか? ちなみにシリアはワインもまずい。
 
 
 
ところで宿では日本人にたくさん会った。
夫婦で旅行しているOさん夫妻。
すでに二年も旅行しているそうである。
かしましい三人組の女の子。そのうちふたりはイエメンに行くそうで、旅行人をコピーするのにひと晩貸した。
夫婦旅行者にお会いしたのは、インドでインド料理の研究に来たという人たちくらいで、純粋な旅行者は初めてである。
もう少しお話ししたいところだが、明日ホテルを移ってしまう。
今度遊びにでも来るか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ダマスカスの旧市街には圧巻のスークがある。シリア人の間では「ここで揃わないものはない」と言われているらしい。「へえ、じゃあパソコンとかも売ってるんだ」なんて意地悪なことは言わないようにしよう。
 
11月21日(火)
ダマスカスの旧市街に圧倒される
 
昨日は寝不足と疲労で十二時には床に就いた。
起きたのは午前十時過ぎ。
すぐに支度をして荷物を部屋から出してチェックアウト。
ダンボールを抱えて郵便局へ。
重さを量ると9.7キロ。
発送料はおよそ4000ポンド(8000円)である。
高い。船便はないらしい。ちなみにこれはノーマル料金で、エクスプレスになると10000ポンド(二万円)だそうである。
中山母からの珍味小包はまだ届いていないらしい。日本からの郵便物は通常二週間以上かかるそうだ。
あと数日は待たされることになりそうである。
晴れ晴れとした気分でホテルに戻り、昨日目をつけておいたマルシェ広場近くの安ホテル(アラビア語で書いてあるので名称不明)に引っ越す。
通りに面した部屋なので少々やかましいが、日当たりがよくて日中はポカポカと暖かい。
フロトイレ付きで500ポンド(1000円)。
 
食事をして茶を飲んでから、旧市街の散歩に出かけた。
ホテルを出て左を向くと、すでに旧市街の城壁が見える。
入口は大きなスークとなっていて、天井の高い洞窟のような商店街が奥へ延びている。
薄暗いが、夏場は涼しいのだろう。イランのスークを思い出す。
こういう感じで延々と、迷路のような商店街が延びているのだった。
シリアに来て、ずいぶんペルシア文化に近づいたことが実感される。
この薄暗いスークといい、旧市街に見られる高くて厚い壁に囲まれた家々といい、ペルシア諸都市の町の設計と非常に似ているのだった。
 
しかし建築物には材木が頻繁に使用されていることが大きな違いである。
ペルシアではおそらく、材木は高価だったのだろう。
日干しレンガを積み重ねたドーム型の天井が、今でもスークで見られた。
ドーム型の天蓋というのは、材木も石材もないペルシアで、泥と日干しレンガだけで天井を作り出すために発明された建築様式なのだった。
レバノンからの豊富な材木があったこの地域ではドームの天井は少ない。材木と日干しレンガを併用した建築が目立つのだった。
 
 
長いスークを抜けると、忽然と大きなミナレットとモスクが現れる。
ウマイヤド・モスクである。
世界最古のモスクのひとつと言われるこのモスクは八世紀初め頃に建てられた。
マホメットが死んで100年も経っていない頃である。
だからこのモスクの建築様式が、その後のあらゆるモスクに影響を与えたのだろう。
中央に設けられた礼拝前に身を清めるための泉や、中庭を取り囲む回廊、ミナレットなど。
内部には、ヘレニズムを思わせる重厚なグレコローマン様式の石柱が何本もある。
ステンドグラスは後付けだろう。
 
 
このモスクを建てたムアーウイアという人は、しかし、シーア派のイスラム法学者からは目の敵にされている人物であった。
なぜならこの人は、マホメットの死後に謀略を働かせてカリフの権利を握り、その世襲制を始めた人であり、しかも彼の息子は、シーア派が信奉するアリーの孫のフセインを、カルバラの戦いで殺した人物だからである。
だからムアーウイアと彼が創始したウマイヤ朝は、シーア派イスラム教徒から、もっとも嫌われるのだった。
しかし。
このモスクにはイラン人観光客が大量に押し寄せていた。
昨日も散歩していて、懐かしいイランの「セイル・オ・サファール社」の大型バスが停まっているのを私は目撃したのであった。
いいのかイラン人。
ウマイヤ朝はあんたらの敵ではなかったのか??
ハメネイさんに怒られないのか?
 
 
 
女性は容赦なく、このような「ネズミ男」スタイルに。
 
 
 
そんな我々の疑念も彼らに伝わることはなく、黒装束の女たちは大挙してウマイヤド・モスクに押しかけ、東に向かって仲良く礼拝していた。
 
 
隣には、我が尊敬するサラディンの柩が安置してあった。
清廉潔白な人徳者であり、百戦百勝の知謀の将でもあったサラディン。石柩はなぜかふたつあり、片方がドイツからの寄進だそうだ。
傍らに晩年のサラディンの肖像画が飾ってある。温厚そうな風貌だった。
真田幸村も口数の少ない、初老の地味な男だったというが、英雄というのはそういうものなのかもしれない。
ところでシリアの警官は頭になにやらとんがった角のようなものが生えた帽子を被っているのだが、これと同じものを肖像のサラディンも被っているのだった。おそらく当時のイスラム戦闘集団の正装の名残なのっだろう。
なんとなくモスクのドームに似ていなくもないのだが、関係ないのだろうか。
 
 
それにしてもここのチケット売り場はわかりづらかった。
三十分近くも右往左往してようやく見つけたのだが、そこにはなんに看板もなくて、奥の部屋の壁に「50ポンド」と書いてあるだけで、机に管理人の年配の男がぽつんと座っているのだった。
「ここは第一に現役のモスクであり、異教徒の観光客が来ようと来まいと関係ない」
という政府の方針が伺えて、強欲なヨルダンから来た我々としては、むしろすがすがしい気がした。
これがヨルダンだったら5ディナールは確実に取っているな。
間違いない。
 
 
ウマイヤド・モスクを中心に縦横にスークが伸びていた。
つまりこれらのスークは日本の門前町のようなものなのだった。
迷子になりながら迷路のような路地を歩く。
恐ろしく古い建物があちこちに残っている。崩れかけたまま補修されずに朽ち果てているのもたくさんある。もったいないことである。
ドア越しに子供がこちらを見ていた。通りすがる拍子に、家の中が見えた。
それはすばらしく豪華な室内であった。
大理石張りの、磨き上げられた床が見えた。その奥には瀟洒な手すりと階段。真っ白な壁。
この旧市街の住人たちは、実はかなり裕福な人々なのである。
 
 
 
モスク内部は、こんな感じ。鏡のように磨かれた大理石の床が一面に広がる。中央には信者が身を清める泉がある。
 
 
 
外観は確かに古びていて、あまりぱっとしないのだが、そのぶん内部には相当金がかかっているのだった。
外面はどうでもよくて、内側が重要である。
厚い壁で囲まれた内側の瀟洒な中庭。
あるいはモスクやスークの、内側の華麗さが優先される建築。
ウマイヤド・モスク自体が、外観なんておざなりで、内観に贅を尽くした建築である。
それらはすべてアラブ人一般に共通の、徹底的な身内主義に直結しているのだった。
 
 
帰りがけにコーヒー店で豆を挽いてもらう。残念ながらブラジル産。500gで100ポンド。それとシリア産ワインを購入。200ポンド。
これは酸っぱくて水っぽくていまいちである。
次はケチらないで300ポンドのを買おうと思う。
 
夕食は近くの安食堂で、ハーフチキンとスパゲティ、トマトスープ。
味付けが全体に酸っぱい。アラブ人は酸っぱい食い物を好むと聞いたが、本当である。
350ポンドと少々高くついた。ぼられたか?
ホテルに帰って日記をつけてワインを飲む。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ダマスカスのランドマーク、その名も「ダマスカス・タワー」。しかしエアコンの室外機があちこちにくっついて、景観としてはいまいちである。でも確かに目立つ。たかだか二十階建てくらいなのに。この町には高層ビルは皆無なのである。
 
11月22日(水)
国立博物館へ
 
シリアはけっこう「チノ攻撃」がある。
「チノ」はスペイン語なので、こちらでは「チニ」なのだが、ダマスカスに到着してまだ二日目なのに、もう相当な回数言われた。
多くは子供たちが、すれ違いざまに「チン」と叫んで言ってしまったり、あるいは自転車に乗った若い男が追い越しざまに「チニ」と言ってきたりするという感じである。
それほど悪意のこもった言葉ではないのだが、軽度の嘲笑は込められているだろう。
一度、後ろを歩いている中年の男ふたりが、
「中国人かな、日本人かな」
「中国人だろ」
「おい、中国人」
「中国人、こっちを向け」
としつこく声をかけてきたことがある。
その時は郵便物を抱えていたし、人通りが激しかったので、振り向くこともできず、そのまま無視して歩いていったのだが、要するにどこの国民でもかまわないから、とにかく声をかけてみたいという欲望を抑えきれない人々なのかもしれない。
しかし日本人や中国人なら、そのように気安く声をかけるにもかかわらず、西洋人にはそのようなことをしないのである。
これを私たちはどう考えればよいだろうか。
 
その後、雑貨屋で買い物をしたときに、そこのオヤジが尋ねてきた。
「お前たちはムスリムなのか」
「残念ながらブッディストです」
「お前のマダム(嫁のこと)は、スカーフを頭に巻いているが、ムスリムではないのか?」
「いいえ、タダのイスラムスタイルです」
これは今まで何度となく投げかけられた質問である。
「お前たちは中国人か? それともインドネシア人か?」
「「いいえ、日本人です」
「なに? 日本人なのか?」
俄然、オヤジの態度が改まる。
「日本はグッドだな! すばらしい国だ!」
そして次に、オヤジは眉をひそめるのだった。
「でも中国はダメだ。これもこれもこれも中国製だが、全部ノーグッドだ」
そしてまた表情が輝く。
「しかし日本製は全部ベリーグッドだ。すばらしい」
私は複雑な気持ちで、とにかく礼を言って辞した。
 
このオヤジの言葉が、おそらくアラブ人一般の意識を表明しているだろう。
日本製品は議論の余地もなくすばらしい。
しかし中国製品は安物で質が悪い。
確かに中国製品は世界中の至るところで見かけることができる。
トランジスタラジオやテレビなどの、聞いたこともないメーカーの電化製品やバイク。衣類。そしてプラスチック製の雑貨など。
世界中が中国製品であふれかえっていると言っても言い過ぎではないくらいに、どこの国の市場でも中国製品を見かけるのだが、そのどれもが確かに安物の工業製品なのだった。
そしてかつての日本製品のように、
「安かろう、悪かろう」
というイメージが定着している。
それが中国という国家と国民のイメージにまで押し広げられているのだ。
それに加えて、中近東では、いまだ東洋人が珍しいということもあるだろう。
 
安くて質の悪い製品をごっそり売りに来る、わけのわからない言葉を話す連中。
 
彼らの中国人の印象とは、そんなようなものなのだろう。
かつて西洋をしのぐ文明を築いたアラブ人からすれば、いまはすっかり西洋の足下に組み敷かれているとはいえ、中国などよりも自分たちの方がよっぽど高級な人種なのだという考えがあるのかもしれない。
 
 
 
本日は国立博物館に行ってみる。
途中で「ヒジャーズ駅」を見物。
この駅はかの有名なヒジャーズ鉄道の起点となった駅である。
トルコ皇帝の肝いりで建設が始まり、第一次大戦で挫折してしまった、メッカへの「巡礼鉄道」である。
西洋に完全に制海権を握られたトルコの苦肉の策として計画されたが、戦争であえなく挫折してしまい、現在では道路の建設で、その重要性はほとんどなくなってしまった。
最後まで日の目を見ることがなかった悲運の鉄道である。
 
 
 
 
 
内部は非常に精巧で、すばらしく保存状態がいい。
二十世紀の初めに建てられたそうだ。
ステンドグラスの光りが美しい。
しかし肝心の鉄道は、郊外の別の駅が始発になっていて、この駅舎は建物だけが保存されているのだった。
内部では古本市が催されていた。
 
 
そこからさらに西へ歩くが、博物館は見つからない。
いったいどこなのだ。
ウマイヤドモスクの切符売り場といい、この国は少しも観光客にやさしくない。
結局三十分ほども迷い歩いた末に、通り過ぎたことが判明して、急いで戻った。
冬期なので開館時間が二時間も短いのである。
二時半に入館。
閉館は四時である。一時間半しか見られない。
まったくである。
 
展示物はシリア国内のウガリト遺跡の出土品から始まる。
スフィンクスがある。
エジプトからの輸入品だそうである。
紀元前十三世紀くらいのもので、エジプトではラムセス二世くらいの頃だろうか。
きっと当時はエジプトが最先端の文明だったのだろう。
同時にくさび形文字の粘土板もある。
おそらくエジプトのパピルスは全部朽ち果ててしまって残っていないのだろう。
パピルスは長い間エジプトの特産品として各地に輸出されていたそうである。
この粘土板を見ていると、確かにこんな重くてでかいのよりもパピルスの方が手軽である。しかし二千年後の現代に残っているのは、その使い勝手の悪い粘土板の方なのだった。
現代という時代は、数千年後には、もしかしたらまったく記録の残らない空白の時代になるかもしれないという話を聞いたことがある。
コンピュータやDVDで記録されたものがすべて消えてしまって、あとにはなにも残らないのだ。
ちょっと怖い話である。
今でもデジカメで撮影した写真が全部消えてしまって、幼い頃の写真が一枚もない子供がいるという。
やはりデジタルよりもアナログの方が確実なのだ。
 
 
ウマイヤ朝時代に鋳造されたディナール金貨とディルハム銀貨がある。
アラビアで初めての自前の通貨だそうである。
 
 
時代はどんどん下ってペルシャ時代の瀟洒なインク壷や油壺、ペーパーナイフなどがある。
ペルシャの製品には本当にすばらしい装飾性がある。
ひとつひとつが十分な芸術性を備えていると言ってもいい。
すばらしい逸品ばかりである。
しかしそういった質の高い製品は、西洋の大量工業製品に押しつぶされて、一気に消滅してしまった。
世界中のすばらしく精巧な手工業製品はどんどん駆逐され、安物の大量生産品が出回る。
そういう時代が二十世紀なわけだが、これらのペルシャ製品はその最後の時期、十九世紀のものだった。
世界中が、美術的になんの価値もない製品に支配される時代がやって来た。
考えてみれば、現在大量に生産されている工業製品の中に、数百年後の博物館に展示される価値のあるものなど、なにひとつないのである。
結局、もっとも価値のあるものというのは、イランのペルシア絨毯のように、時間をかけて丹念に生産された精巧な手工業製品なのであり、そういった意味では十九世紀となにひとつ変わってはいないのかもしれない。
 
 
 
四時に閉館。
半分しか見られなかった。また明日来ることにしよう。
それから旧市街へ行って、本日嫁が落としてなくしたという帽子を買いに出かける。
日が暮れかけてきて気温は下がり、冷え込んできたが、人通りはさらに増えたようだ。
イラン人の中年女性が記念写真を撮っている。
本当にイラン人が多い町である。
帽子は、こちらの女性はほとんどかぶらないので、まったく見つけることができなかった。
私は途中から酒屋を探していたのだが、こちらも見つからない。
結局ぐるりと回って、なにも収穫を得ないままマルシェ広場に戻ってきた。近くのシャウルマ屋でメシ。
 
本日はアルハラメインホテルで知り合ったO夫妻と食事でもしようかと思い、ホテルで少し休んでから出かけてみた。
しかしスタッフに尋ねてみると、本日チェックアウトされたという。
残念である。
酒もないし、近くのシーシャ屋で一服することにした。
 
 
シリアのチャイセット。アラブ人はこの砂糖壺の砂糖をすべて、「ザアーッ」とチャイに開けて飲む。私は半分くらい。それでも十分甘い。
 
 
 
この店では水タバコのことを「ガリオン」と言っていた。イランと同じ名称である。
ふと向かいのホテルの看板に目をやると、
「サマルカンドホテル」
と書いてある。
なんだかダマスカスに来て、急に東方への道が開けた感じがする。
これまではアラビア半島で行き止まりだった文明のつながりが、はるかイランや中央アジアのサマルカンドにまで広がったのである。
人々の顔にも人種の混交が見られるように、この国の文化も遠いアジアの香りを含み始めたような気がした。
 
 
シーシャ屋には靴磨きが付き物のようだ。
エジプトでもそうだった。
チャイをすすっている男たちの靴を磨くのである。
靴磨きと言うのは世界中どこでも、貧困を絵に描いたようで、みすぼらしい少年や男たちや従事する職業である。
その男も、薄汚れて黒くなった赤いヤッケを着込み、垢じみた黒い顔とぼさぼさの頭をしていて、靴磨き中に客に履かせるサンダルを片手に店の中を右往左往していた。
そして運悪く、チャイを運ぶ店主の男にぶつかってしまった。
「気をつけろ!」
店主が睨みつけると、男は気弱そうに俯いた。
そしてそのお詫びだろうか、靴磨きの男は床掃除を始めるのだった。
この男はそういった雑用をすることで、この店で靴磨きの営業をすることを許可してもらっているのである。
 
 
コカコーラに対抗して発売されている、シリア産「ウガリト・コーラ」。「ウガリト」は地中海に面したラタキア地方の有名な遺跡の名前。
 
 
 
そういえば、さっき夕食を食べたシャウルマ屋にも、やはり身なりの貧しい老人が大きなビニール袋を下げてやって来た。そして店の隅にさりげなく置いてあった、おそらく余り物のパンが入った袋を漁っているのだった。
このシャウルマ屋では、そういった物乞いに余り物のパンを恵んでやることが、日常的に行われているのだった。
社会的な弱者を救済することが、イスラム社会では励行されているという。
前にも書いたけれど、イスラム社会に来ると、車椅子に乗った身障者を頻繁に見かけるようになったし、ラマダンの最中のエジプトでは、富者が貧者を招待する食事会のようなものがあちこちで見られた。
全体として、インドなどと比べると、そういう社会的な均衡が、イスラム社会ではまだしも保たれているような気もするのだった。
 
しかしそういった個人的な救済以前の問題として、サウジやドバイなどの産油国の莫大な貧富の差を、私たちはどう考えたらよいのだろうか。
イスラムの教え以上に強力な血族主義が、アラブ社会のもっとも大きな問題点として指摘されるべきだろう。
「アッラーのお恵み」として突如湧きだした石油を、アラブ全体の利益とはせずに、一族で独占し、途方もない財産を持つ王族がいる一方で、このように他人の店を掃除して、店主の機嫌を伺いながら靴磨きを生業としなければならない人もいるのだった。
個人的な救済以前に、こういった人々に、少なくとも定職に就かせるための政策が必要であることは明白なのだった。
時折の喜捨や食べ物を与えることは、そういった社会的な矛盾を糊塗しているようにしか、私には思えないのだった。
しかしそこまで非難するのは厳しすぎるのかもしれない。
パンを恵んでいるのは、あくまでシャウルマ屋の主人なのであり、サウジの石油王ではないのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「まじないグッズ」屋(たぶん)。エジプトの田舎で、こういう動物の剥製を玄関に張りつけている家を何軒か見つけた。ヘビ、トカゲ、ヒトデ、カメなど。香辛料屋も兼ねていることが多い。
 
11月23日(木)
国立博物館 二日目
 
本日も、昨日に引き続いて国立博物館に出かけた。
結局昨日は半分しか見物できなかったので、今日は左半分の主にビザンチン芸術とパルミラからの出土品に関する展示物が目的になる。
その前に入口の売店でくさび形文字とヒエログリフ、フェニキア文字の対照表を購入する。
他にシリア全図、旧市街地図、絵葉書など。
けっこう散財である。
 
グレコローマン時代の大きなモザイク画。
この時期というのはキリスト教が徐々に広まり始めた時代だが、のちのビザンチンの頃のようなイコンだらけにはなっていなくて、おおむね人物描写である。
パルミラあたりの壁画には、すでに現在のガラベーヤと同じ感じの、裾の長いアラブ服をすべての人が着ている。
暑いところではあれが一番涼しいのだろう。
 
パルミラからは膨大な彫刻が掘り出されている。
それらはギリシア彫刻よりも、どちらかというとペルシアの影響の方が強い感じである。
パルミラというオアシス都市は、東方ペルシアと西方ローマの間でうまく立ち回った人々であったという。
また東西交易で莫大な財をなした人々でもあった。
パルミラからは中国の絹織物も出土しているそうだ。
ペトラと同じで、広大な砂漠の中にポツリと水の湧き出るオアシスであったパルミラは、そこを通過する隊商が必ず立ち寄らなければならない補給地点であった。
そういう旅人を保護し、安全な交易を約束する代わりに高い関税をかけたのだった。
ペルシアとローマは、こうした独立した都市国家を征服するのではなくて懐柔する方策をとったのだった。
 
博物館奥には、当時のユダヤ教のシナゴーグが復元してある。
壁一面に描かれた、すでにかなり退色したフレスコ画が、なだかとてもグロテスクに見えた。すでにキリスト教会堂に通じるものがある。
いつの時代のものか説明がないのでわからないのだけれど、今まで我々が見てきたシナゴーグは人物画もない無機的な感じのものだったので、ここのシナゴーグは意外だった。
 
 
博物館を出ると四時。
そのまま旧市街のキリスト教地区に行って酒を仕入れることにする。
歩いていると、嫁が急に生理になったというので、途中で別れて私だけ買い出しに出かける。そこから五分も歩かないところがキリスト教地区になっていて、古道具屋が軒を連ねていた。
酒屋も発見。
ワイン一本とビールを数本購入。
 
 
ひと休みしてからネット屋に行って、夕食を買って帰り、部屋で酒盛り。
ワイン少しを残して、すべて飲み干してしまった。
 
ところでこの日は深夜になって「ダンテス・ピーク」というハリウッド映画がやっていた(ここの宿には各部屋にテレビがある)。
名前は聞いたことがあったが、内容はまったく知らなかったのだけれど、要するに火山噴火に巻き込まれるというアクション映画であった。
主人公は火山予知の専門家で、最近活動が始まったらしい火山に調査に行き、異常を認めて麓の町に非難を呼びかけるが聞き入れてもらえない。
そのうちに噴火が始まり、逃げ遅れた人を助けるうちに災害に巻き込まれ……というストーリーであった。
最初の十分くらいを見れば、その後の筋がだいたい想像できる映画であった。
 
このパターンはハリウッド映画に非常に多いというのは前にも書いた。
「異常を知らせる科学者」「それを認めようとしない地元の有力者と群衆」
そして、「大災害の発生」「ひとりで立ち向かう科学者」
という筋書きである。
おそらくその嚆矢はスピルバーグ監督の「ジョーズ」あたりではないかと思うのだが、ここで一歩進めて考えてみると、この筋には、キリスト教の影響が顕著に見られるのだった。例えば、
「群衆に真実を説くが受け容れられない主人公」
は、まさに教義を説くイエスそのままである。そして、
「実際に災害が発生して、それにたったひとりで立ち向かう主人公」
これもまた、群衆の罪を一身に背負って磔刑になったイエスそのままなのだった。
 
こうした自己犠牲の精神がアメリカ人に好まれるのは、冬のポトマック川に墜落した飛行機の乗客で、救助される順番を女性に譲って死んでいった男性のことが、いつまでも美談として語られるようなところに現れている。
 
こういう、言ってみれば「量産型自己犠牲映画」は、考えてみるとハリウッドで製作されたアクション映画のかなりの部分を占めているのではないだろうか。
一連の災害映画を始めとして、「タミネーター」にも「マトリックス」にも、その影響を認められるだろう。
こういう自己犠牲的な筋書きが大量生産されるのは、言うまでもなくアメリカ人がもっとも好むストーリーということなんだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ダマスカスの旧市街は活気がある。この雰囲気は、おそらく数百年前、あるいはもっと前から変わらないのだろう。いや、もしかしたら当時の方が活気があったかもしれない。東西交易はすっかり西洋人に握られ、ダマスカスとオスマントルコは事実上、衰亡してしまったのである。
 
11月24日(金)
イスラムの休日
 
今日は金曜日で、イスラムの公休日である。
よってビザ延長に行くイミグレオフィスも、荷物の引き取りにいく郵便局も休み。
することがないので、一日ホテルにこもってHPに載せる地図の作製作業に集中する。
 
昼前から作業を初めて途中でメシを食ったりして、ふと気がついて時計を見ると午後七時五十分だった。根詰めて作業をすると時間を忘れてしまう。
この八時間の間ずっとパソコンの小さな画面だけに意識が集中していたのかと思うと、目が悪くなるのも当たり前だろう。
キーパンチャーの職業病、肩こりもひどくなる。
現代人の現代病である。
 
 
金曜日のスークは、この通りすっかりシャッター街になってしまう。もちろん翌日になると、活気が戻ってくるのだが。
 
 
 
アラビア人というのは、オリンピックのような身体競技を好んだギリシア人とは違って、元来知的作業を好む人々だったそうである。
だから天文学のような、観測的な学問が発達したのだろう。
考えてみれば遊牧民というのは、実は体を動かすのが嫌いな人々なのである。
モンゴル人を見ていると決して走らないのだった。走るくらいなら馬に乗るのが彼らなのである。
だから馬に乗らないときは実に悠々と歩くのである。
急いでいるときは馬に乗るのだから、馬に乗らないときは急いでいないときとも言えるだろう。
アラビアの人々にも、そういうところは当てはまるのかもしれない。
しかし一方で砂漠のベドウインたちは即物的で、反射神経には秀でていたものの、創造的思考とは無縁の人々であったらしい。
我々の会ったベドウインの人々も、どちらかというと知的な印象とは違う、よく言えば野性的な人々なのであった。
しかしまた一方で彼らの好んだ学問が天文学や医学であったのは、星を見て方位を定めたベドウインの文化からすれば当然のことかもしれないし、医学というのもかなり即物的な学問ではある。
 
 
 
スークで仕入れた氷砂糖スティック。イランのOさん宅で見かけたもののさらにでかいやつ。これでチャイをかき混ぜて飲むと甘くなるのだが、そのあとベタベタになるので、保管するのが厄介である。はっきり言ってあんまりいいアイデアとは思えない。
 
 
 
すっかり日が暮れてから私だけ買い出しに出かけた。
旧市街のキリスト教地区だけに酒屋があるので、片道十五分ほどの距離を歩いていくのだった。
金曜日なので、いつもは賑わっている商店街が閑散としていた。
人通りもまばらである。
路地を曲がって歩いていると、後ろから八十キロ近いスピードで突っ込んでくる赤いスポーツカーがあった。そして身をすくませて脇に避けた私のすれすれのところを猛スピードで走り抜けていった。
運転していたのはアラブ人の若い男だった。
車に乗ると、なにか勘違いをしてしまう連中が多い。
だから私は車が嫌いである。
車を運転すると人が変わったようになる人もいる。
普段はおとなしい、他人の顔色を窺っているような男でも、車に乗ると口汚く悪態をついたりする。
車というのは、人間を幻惑させる、ある種の力を持っている。
車の性能と自己の能力を無意識に同一視してしまう。
同じことはナイフや拳銃にも言えるだろう。
だから私は、車も銃器といった、一般の男性が好むようなアイテムは、実はあまり好きではない。
 
 
不愉快な思いをしながら酒屋にたどり着いてワイン一本とビール二本ほど購入してもと来た道を引き返す。
ダマスカスの旧市街はエルサレムと同じように、宗教によって住み分けができているという。
西半分はイスラム地区で、もっとも活気があり、東半分の北側がキリスト教地区、南側がユダヤ教地区だそうだ。
ガイドブックによるとユダヤ人はイスラエルの建国でほとんどが立ち去ってしまったそうだ。
キリスト教地区は、イスラム地区と比べるとずいぶん寂れた感じがした。
それでも表通りには古道具屋や土産物屋が何軒も軒を連ねていて、それなりに賑やかではあるが、イスラム地区のスークのような活気はなかった。
市の中心部からから離れていることもあるのだろうが、やはり絶対数が少ないことが原因なのだろう。
彼らがこの国のマイノリティであることを象徴しているかのようだった。
 
 
ホテルの前の総菜屋で豆スープと羊肉スープを買って宿に戻り夕食。
この国の国産ビールは「バラダビール」という、すさまじくまずいビールである。
気の抜けた発泡酒を水で割ったような味がする。栓を抜いても「プシュッ」と言わないというのは前に書いたとおりである。
他に輸入物のビールがある。
多くはドイツからの輸入だが、アラブ諸国の製品も多い。
特にレバノン産の「ビブロスビール」は、なかなかおいしかった。エジプトの「マイスター」もある。アルジェリア産の「タンゴビール」はいまいちである。ヨルダンの定番「アムステルビール」はシリアではレバノン産のものが売られている。
このように見ていくと、これらのビールがいずれもこの国の友好国からの輸入品だけで占められていることがわかるのだった。隣国のヨルダンあるいはトルコの製品はひとつもないのだった。
これは先日見かけたイラン人観光客にも、該当するようにも思える。
つまり対イラク外交以来の友好関係にあるイランからの観光客を受け容れているのだろう。
イランからすると、近隣の国の中でも物価が安く、しかもイスラム第四のモスクと言われるウマイヤドモスクを所有するこの国は、買い物も兼ねた魅力的な観光地なのに違いない。
 
 
左からシリア、レバノン、アルジェリア産のビール。一番うまいのは文句なくレバノン。次にアルジェリア。そして三つくらい格落ちしてシリアのバラダビール。いずれもフランスの植民地なのに、なんでこんなに出来が違うのだろうか。
 
 
シリアとトルコの関係は、歴史を見ても明らかなように険悪である。
オスマントルコという異民族に支配され続けたこの国は、第一次大戦でイギリスの援助を受けて独立戦争を始めるわけである。
しかしサイクス・ピコの密約によって、この国はフランスの統治下に入る。
世界地図を見ると、シリアの地中海岸の北部が、まるでトルコに浸食されたようにえぐられている。
それは第二次大戦中に、トルコの離反を怖れた英仏が、この地方をトルコに割譲したことによるのだという(『シリア 東西文明の十字路』)。
だからシリアとトルコの関係がよいわけがない。
これとは逆にヨルダンでは、ノンアルコールビールやビスケットなどで、トルコの製品をよく見かけたのだった。
ヨルダンはかつてシリアに侵略を受けてイスラエルに助けられたことがあるくらいだから、関係は良好ではない。
遠交近攻の外交方針が、これらの国々で働いているのは明らかなのだった。
そして同じアラブといっても、それは決して一枚岩ではあり得ないことが、こんなところからも明瞭に見えてくる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
旧市街には、こんな感じの廃屋がけっこうある。築二百年くらいは平気で経ってそうな建物が、捨て置かれているのは残念である。やはり旧市街には、駐車場がないとか、いろいろ不便なこともあるんだろう。
 
11月25日(土)
旧市街散策
 
郵便局の荷物の受け渡しは午後一時まで。イミグレのビザ延長手続きは二時までである。
よって本日は、がんばって午前十時に起きた。
朝食もそこそこに郵便局に向かう。
この間荷物を送ったときの喧噪はうそのようで、忙しく働いていた局員たちがヒマそうにチャイを飲んでいた。
用件を伝えると、いかにもやる気のなさそうな係の男が台帳を持ってきた。
「この名簿の中から自分の名前を探しな」
そんな感じで台帳を差し出されるが、もとよりアラビア語はひと文字も読めないので、我々は閉口した。
「日本からの荷物はどれですか」
と尋ねても、相手は英語がわからず、相変わらずなげやりな態度でこちらを見ているだけだった。
態度の悪い職員だとは思ったが、しかしどうすることもできない。
「指さしアラビア語」を取りだして、「まだない」の項目を指さして指し示すと、男は、
「ああそうだ。まだ届いてないんだ」
と言ったようだった。
結局まだ通関していないということだろうか。
ネットでの追跡調査では、間違いなくダマスカスの空港には到着しているのだが。
しかしこのやる気のない男を見ていると、空港の通関手続きも、恐ろしく時間がかかっているであろうことは想像に難くないのだった。
ヨルダンはまだしもだったが、この国はソビエト社会主義の悪しき影響を受けて、それがいまだに抜けきっていないのだろうかとも思ったりした。
 
 
次にイミグレオフィスへ。
ガイドブックの支持通りに、ダマスカス大学裏手のオフィスまでトコトコ歩いていく。
警察官にあっちこっちと指示されて、その通りに歩いていくが見つからない。
そして最終的な結論というのは、
「オフィスは移転した。マルシェ広場の近くだ」
そこで私は思い当たることがあった。
確かに数日前からあの辺を歩いているときに、「イミグレーション」と英語で書かれた看板を見かけていたのだった。
やはりあれだったか。
我々はもと来た道を再び引き返す。そしてホテルから歩いて三分ほどのところにあるイミグレオフィスに、難なくたどり着いたのだった。
それにしてもこの距離で「タクシーでないと無理だ」と言っていた通行人のあの男性は、そんなに歩くのが嫌いなのだろうか。マルシェ広場まで十五分ほどの距離なのだが。
「歩くのは貧乏人のすること」
という考え方はタイなどでもあるらしく、あのすさまじい渋滞で、歩いた方がよっぽど早く着くことがわかっていても、バスはギュウギュウ詰めに混み合っているのだった。それが我々にとってタイ人の、まるで理解できないことのひとつなのだが、そういう意味不明の見栄のようなものが、アジアには確かにあるのだった。
それは近代的なプラグマティズムでは理解できないアジア的、あるいは中国的な体面主義なのかもしれない。
あるいはあの男性にとっては、たとえ十五分でも外国人を歩かせるのには忍びないという考えがあったのかもしれないが。
 
 
イミグレではさらに不可解なことを言われた。
「アラビア語はわかるのか」
と我々に尋ねて、
「わかりません」
と答えると、ちょっと不機嫌な顔になった上官の軍人は、英語ができる民間人を連れてきて通訳させた。
「で、なにが望みだ?」
「ビザの延長なんですが」
彼は我々のパスポートを眺めて言った。
「延長の必要はない。お前たちはシリアに四十五日間滞在できる」
「は?……でもスタンプのこの部分に「十五日以上滞在する場合はイミグレオフィスに行け」と書いてあるのですが」
「こんなものはどうでもいいのだ」
どうでもいいわけがあるはずがない。
「そんなわけはないと思うのですが」
「とにかく大丈夫だ」
「……それとレバノンに行きたいのですが」
「国境でビザが取れる」
しかしそれで国境で問題になったと情報ノートには書いてあったのだが。
「ほんとに四十五日なんですか?」
「そうだ。四十五日だ」
「ワッラ(ほんと)?」
「わっはっは。本当だ」
オフィサーのオヤジは、私の突然のアラビア語に、機嫌よく笑った。
結局ビザの延長もうやむやなままに、我々はホテルに引き返した。
 
 
これぞまさしく「原動機付き自転車」。自分で改造したものらしい。本田宗一郎の創業時の彷彿させる。
 
 
 
午後からは旧市街の散歩に出かけた。
石畳の細い路地が入り組んだ旧市街の町並みは、散歩するには理想的な町である。
レンガに漆喰を塗った家々は、たいがい二百年から三百年くらい前のものらしく、前にも書いたが門構えは粗末でも、内部には広々とした中庭と噴水があるような豪邸なのだった。
商家の広がるイスラム教地区と比べて、キリスト教地区は閑静な住宅街という趣で、歩いている女性はスカーフをしていない人が多くなった。
安そうなバーが一軒あった。ショーケースに陳列されている酒瓶を眺めていると、中から客の男性が顔を出した。
「君たちはブッディストかね」
「そうですが」
「私は仕事でタイに住んでいたことがあるのだよ。どうだね。中に入って一杯やらないか?」
「いえ、まだ時間が早いので」
確かにまだ午後三時だった。
私がそういうと、男性はちょっとばつの悪そうな顔をして、それから嫁の顔を見て言った。
「彼女はムスリムなのか?」
「いいえ、ブッディストです」
「なぜそんなスカーフを巻いているのだ?」
「イスラムスタイルなのです」
「そんなことはする必要はない。この国では自由なんだ」
男性はちょっと神経質そうにそうまくし立てた。
「イスラムスタイルはノーグッドだ」
男性の口から酒臭い息が流れてきた。
土曜日とはいえ、こんな早い時間から酒を飲んでいる後ろめたさもあったのかもしれない。
しかしそれにしても、キリスト教地区で、これほど露骨にムスリムの悪口を言われたことは初めてだったので、私はちょっと驚いたのだった。
この国ではマイノリティであるキリスト教徒のこの男性の、ムスリムに対する反感は理解できないこともない。
政府の反米政策で、経済が停滞したり、通貨が安定しなかったり、不安定な要素がたくさんあるのだろう。
それらはキリスト教徒である彼らにとっては、単なるはた迷惑な政策なのに違いない。
歴史上、この地域のキリスト教徒は、ムスリムの権力者によって幾たびかの弾圧を受けてきたのだったが、おおむねイスラム教徒と共存して平和に生きてきたのだった。
高い税金は取られたものの、宗教の自由も保障されたし、地域での自治も許されていたという。彼らはイスラム社会の中で、比較的自由に暮らすことが認められていたのだった。
前述の『シリア 東西文明の十字路』によると、この地域では四段階の階級があったとされる。
ひとつは支配階級のアラブ人で、第二階層がイスラムに改宗した「アラビア半島出身者以外」のアラブ人であり、次に啓典の民であるキリスト教徒とユダヤ教徒で、最下層が奴隷であった。
キリスト教は、支配階層にとっては、下層の人々が信仰する下等な宗教だった。
キリスト教徒は徴税のためにイスラム教に改宗することを禁じられていたともいう。
そういう差別が長く続いていたこの地域で、キリスト教徒が肩身の狭い思いをし続けてきたことは明らかなのだった。
 
しかし一方で、江戸時代の日本と同じように、この地域でも、支配階級のアラブ人やトルコ人よりも実務に秀でた非アラブのイスラム教徒やキリスト教徒たちが、商人として活躍していたのも確かなのだった。
 
 
 
 
 
今回旧市街を歩いていて一番気になったのが「ファティマの手」。あとでも書くけれど、ファティマはマホメットの娘で、四代カリフ、アリーの奥さんである。たいがい右手で、薬指に指輪をしている。なかにはヘンナ付きの手もある。
 
 
 
ダハブで会ったキリスト教徒のオヤジが、ムスリムに対して驚くほど無関心であったことを、私は思い出した。
お互いに無関心であることが、お互いのためであるのだということを、この地域の人々は肝に銘じているようにも思えた。
そう考えるとイスラム教徒とキリスト教徒が殺し合ったインドネシアの内乱がいかに異常なことであったかを思うのだった。
この地域では、千年以上に渡る長い歴史の中で積み重ねられた慣習があり、平和的に対立を回避することが暗黙のうちに互いに理解されているのである。
ある日突然、隣人のイスラム教徒が、ジャンビーアを振り上げて襲いかかってくるようなことは、ダマスカスではあり得ないのだった。
おそらくそれよりも、町の外から攻め寄せてくる十字軍の方が脅威であったに違いない。
 
しかしそういった意味で、もっとシビアだったのがレバノンだったのだろう。
ガイドブックを読んでいて気がついたのが、要するに勢力が拮抗していたことが不幸につながったということだった。
レバノンではイスラム教徒とキリスト教徒が、総人口をほぼ折半しているのだった(現在ではシーア派イスラム教徒が最も多いらしい)。
シリアではその比率は、九対一であり、キリスト教徒は敵対するにも値しない弱小なマイノリティなのであった。
そこに、一方的な妥協の結果ではあるけれども、平和的共存の秘訣があったのではないだろうか。
インドネシアは世界最大のイスラム教国だけれど、若干のキリスト教徒が存在し、彼らは主にこの国の東側、スラベシ島以東に居住するのだった。
そしてそれらの土地でのキリスト教徒の割合は、ジャワ島などの主要な島と比べてはるかに高く、イスラム教徒と十分拮抗しうる勢力なのである。
凄惨な殺戮が起こったのは、それらのキリスト教徒が集住する地域なのだった。
もっとも人口が集中するジャワ島に、どれほどのキリスト教徒が住んでいるのか、私は知らないのだが、まったくゼロということはあり得ないだろう。
そういう地域で一方的な虐殺が行われず、対立するある程度の勢力が存在する地域で紛争が起こるのは、つまりはレバノンと同じ状況であったといってよいだろう。
ベイルートという町は、キリスト教地区とイスラム教地区に真っ二つに住み分けられているという。
町がどういう雰囲気なのか、楽しみである。
 
 
いつも行く雑貨屋で購入。どう見ても日本のインスタントラーメンである。期待して封を開けてみたら……スパゲティの切れっ端がたくさん入っているだけだった。もちろんスープの素も入っていない。しかしパッケージには日清のヨーロッパ工場の住所が。ということは袋だけ仕入れて中身を詰め替えたんだろうか。
 
 
 
酒屋でワインとビールを買って帰る。
ワインはシリア産で100ポンド(200円)。安くてそこそこうまい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
看板がアラビア語で書いてあるので、結局名前もわからなかったダマスカスの宿。西洋建築なので、西日が当たり、ぽかぽかと暖かい。アルハラメインよりもずいぶん安いが、その分メンテも不十分。宿泊客もスタッフもアラブ男ばかりで、なんとなく殺伐としている。
 
11月26日(日)
ダウンの日
 
本日はふたりとも二日酔いで、どこにも出歩かずに日記をつけたりして過ごした。
ネット屋に行って、フリーダウンロードできるウイルス駆除ソフトを落とし込んで帰り、ウイルス一掃作業。
外付けHDには七十カ所。パソコン本体には八十数カ所にウイルスが潜んでいて、すべて摘発成功。
他にいつもデータの受け取りや発送に使っているメモリーカードにも四匹もくっついていた。これも駆除。
それと嫁のデジカメのメモリースティックにも数匹くっついていた。
どうりで最近、読み込んだり読み込まなかったり、動作が不安定だったわけだ。
よくわからないのだが、i−Tuneの曲データの中にも潜り込んでいるのがたくさんいるのだった。
なにがどうなっているのか素人の私にはわけがわからない。
このウイルスは「Brontok。E.1」というので、どうやらインドネシア人のハッカーが作成したものらしく、明らかにインドネシア語でなにか書かれている。その下には「売春婦は地獄に堕ちろ」というようなことが書かれている。
コンピュータを立ち上げて数分後に、こいつが勝手にインターネットエクスプローラを立ち上げて、例の「売春婦がどうした」というような落書きを表示するのである。それがなくなっただけでずいぶん晴れ晴れとした気分なのである。
摘発されたウイルスは、駆除ソフト内の「検疫所」に収監され、そこを覗くとズラーッと一覧表示できて気分がいい。      気のせいかパソコンの調子も安定したような気がする。
 
 
そんなようなことをして一日が終わった。
今日のような無益な日が重なると、なんだか無性に日本に帰りたくなる。
 
 
シリアの大統領と、イランの大統領と、ヒズボラの指導者の「反米三役そろい踏み」である。「お花畑」というのがまた笑える。
 
 
 
『イスラームの日常世界』(片倉もとこ 岩波新書)読了。
先日日本から送ってもらった本の中で最初に手をつけたのがこれ。
実はクリフホテルの本棚にもあって、ちょっとがっかりしたのだった。しかしそれも途中で誰かが持っていってしまってなくなってしまった。
そんなこともあって最初に読み始めたのだが、非常に面白く読みやすい本だった。
長年イスラム社会を研究してきた文化人類学者である著者の、確かな知識に裏打ちされている内容。
日本人は「性善説」で、西洋社会は「性強説」で、イスラム社会は「性弱説」であるというの説に納得。
日本人の間では「信用」というものが大きな価値を持つ。個人間の信用と人柄がビジネスに決定的な条件である。
これに対して西洋社会は、日本人には杓子定規な「契約」ですべてが決定される。
アメリカの契約書に読み切れないほどの無数の条項が書かれているのは、つまり「契約書に書かれていないことは破ってもいい」という、生き馬の目の抜くような強者必勝の理論によるわけである。
つまりは弱味を見せると負けてしまう。
そこから「人間は強くなければいけない」という「性強説」となるのである。
そして最後にムスリム社会の「性弱説」は、人間は本来弱いものであることを前提としている。
弱い人間は誘惑にも弱いので、あらゆることをイスラム法で規制しようとする。
酒を禁止し、女性の誘惑も規制する。
契約の履行に関しては「インシャラー」である。
神の意志があれば履行されるのであり、自分の意志で決定するのは、彼らにとっては神に対する不遜なのである。
どれが一番居心地のよい社会かと問われれば、もちろん日本人なので「性善説」がいい。しかし次にどちらがいいかと迫られれば、私は「性弱説」の方を選択する。
自分の責任があまり問われない社会というのは、「イエスかノー」を峻厳に問われる西洋社会よりも、日本人には居心地がいいように思われるのである。
神様に全部をゆだねているというのは、精神的に楽な気がするのだ。
 
この本の「むすびにかえて」で著者が書いている、
 
「近年、中東についての記事が新聞に報道されない日はないほどである。しかし、それらは、圧倒的に非日常的な事件についてばかりである。非日常な事件が新聞に報道されるのは、マスコミのもつ性格として当然のことかもしれない。しかしまた当然のことながらそういう非日常的なものばかりで、この社会が動いているのではない。世の中は、だいたいが日常的なものでつまっている。非日常的なもの、つまりニュースになるものは、それが稀であるからニュースになる」
 
という言葉に、私は大いに賛成するものである。
まさに事件がないと報道しないのがマスコミの宿命でもあるのだが、それだけに数々の誤解を生んでいるのだった。
我々はイランの町の美しさに驚愕したというのは、もう何度も書いていることだが、それはもう自分で行ってみないことにはわからないのだった。
テレビで報道されるイランは、あまりに一面的すぎる。
そういった偏った報道で、どれだけの国々が間接的に損害を被っているのか計り知れないのだった。
そしてそういった偏重報道をされるのは、圧倒的に途上国なのであった。
さらに言うと、そういった報道には、明らかに西欧偏重の姿勢が見られるのであり、おそらくその背後には、日本政府の意向が働いているのだろう。
 
 
この本では、著者のイスラムに対する愛情があらゆるところに見られて、それはそれでいいのだが、しかし納得のいかない部分も若干あった。
たとえば、サウジ国王で名君といわれた故ファイサル王は、特別な廟も作られずに石ころだらけの墓地に、一般人と一緒に埋葬されたという。
著者はそれをイスラームの平等性を端的に示していると称える。
そうかなあ。
国王であること自体で、平等でもなんでもないんじゃなかろうか。
私はイエメンで貧乏なアラブ人をたくさん見てきたが、彼らが貧乏なのは、要するに石油が見つからなかったという、ただそれだけの理由だろう。
この王様は、大油田が出た国に、たまたま土地をもっていたから大金持ちになったわけである。
それを彼らは、「神のお恵み」と考えている。
ならば、なぜ同じアラブ人であるイエメンの人々にも施さないのだろうか。
結局、自分たちの身内だけで莫大な利益を分配してしまっているのが、現在のサウジの実態ではないのか。
「アラブの大儀」よりも保身を優先させて、大国アメリカにべったりと癒着してきたのが、石油発見以降のサウジの政策ではないのだろうか。
この挿話は一見して美談ではあるが、どことなくインチキを感じてしまうのは、サウジアラビアというきわめて排他的で利己的な国の印象が強いからだろう。
かつて歴史学者の宮崎市定教授は、戦前に中東を旅して、石油を原資にしたサウジアラビアが今後急成長することを予見して、その後、見事に外れたと書いている。
 
一方でイランでは、ホメイニ革命の成功で、富があまねく人々に行き届いて、とても平等な社会ができていることは、著者もこの本の中で指摘しているのだが、その市民革命を一番に怖れているのは、他でもないこれらの産油国の王族なのである。
そのことを著者はどう考えいるのだろうか。
 
 
それとイエメンで思い出したが、この本で書かれているような「女性の権利」は、あの国にはなかった。著書にはアラブの結婚式に関する、こういう下りがある。
 
「ふつう、男たちだけのパーティーと女たちだけのパーティーの二つにわけられるが、女たちのパーティーの方が、はるかに豪華で、盛大におこなわれる。男の方は、貧弱なパーティーで、裏方にまわるのがふつうである」
 
我々が見聞したイエメンでの結婚パーティーは、まるっきり逆であった。
イエメンでは男のパーティの方が、はるかに豪華である。
それはイエメンの旅日記をお読みいただければおわかりだろう。
 
なので、この本に書かれているような、「アラブでの女性の権利が男よりはるかに強い」というのは、少なくともイエメンでは該当しない。
著者は女性でもあるので、多少の偏りがあるのではなかろうかという気もする。
その数ページ手前に、一般のアラブ人男性の談話として出てくる、
 
「二人の女を妻にするのは、両手に炭火をにぎるようなもの」
 
というのも、穿った見方をすれば、複数の妻を持つ金持ちに対するやっかみとも取れるのではなだろうか。
 
著者はアラブのかなり上流階級の、ハイソで開明的な女性たちと「しか」お付き合いしていないのではないだろうか。
少なくとも我々が出会ったイエメンの一般庶民の間では、たいがいの女性は文字も読めない人が圧倒的だったのである。
 
 
 
トラックを自分で三輪車に改造したのだろうか。なんだかすぐにひっくり返りそうだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アゼム宮殿の豪華な中庭。宮殿内の、ありとあらゆるとことに噴水が配置されている。アラブ人の「水好き」は、もはや脅迫観念的である。たいして期待しないで行ってみたら、けっこう楽しかった。オススメである。
 
11月27日(月)
アゼム宮殿
 
旧市街のアゼム宮殿に行ってみた。
ガイドブックにもたいして大きく扱われていない見どころではあるのだが、行ってみてたいそう面白かった。
わかりにくい場所にある。
旧市街のスークのはずれをちょっと入ったところに、目立たないように工夫されたかと思うほどの小さな看板が出ている。
他の一般家庭と同じように、入口もたいそう小さい。これがかつて十七世紀のダマスカスを治めた将軍の住宅とは思えない。
そして中に入ってみると、これも案の定だが、広大な中庭と各所にそなえられた噴水がゴージャスで、外観とは比べものにならないほどの豪華さなのだった。
 
その噴水だが、この邸宅すべてで、おそらく二十カ所はあるだろう。各部屋の中にまである。
ハンマーム(蒸し風呂)の中にまである。アラブ人の噴水好きは大変なものである。
しかし電気がなかった当時に、どうやって水圧をかけていたのだろうか。
同じ頃に建築されたベルサイユ宮殿にも大仕掛けの噴水があるそうだが。謎である。
 
 
ハンマームに再現してあった蝋人形。耳かきのサービスもあったらしいが、そこまでしてこれなくてもいいよ。なんとなくホモっぽいし。
 
 
 
内部は民族博物館になっている。
様々な民芸品が展示されているが、感銘を受けたのは当時の女性の服装である。
それは要するにガラベーヤ(アラブ服)なのだが、今とまったく変わらないのだった。
当たり前といえば当たり前なのだが、およそ300年前の日本人の服装と、現代の服装は、まったく違ったものであることを考えたときに、つまり日本人の方が劇的に変化したのだということに気がつくのだった。
そしてここの人々が、あくまでもガラベーヤに固執し、今も服装を西洋式に変えないというところに、彼らの西洋文明に対する反発の、ひとつの大きな示威行為を見るような気がしないでもないのだった。
イスラム文明が世界でもっとも輝いた時代があったことを、この人々は決して忘れていないし、それは今でも大いなる威厳として残っているのに違いないのである。
ネクタイというものは、アラブ人にとって西洋文明の象徴として、もっとも忌避されるアイテムであるという。
アラブ服を着ることが、彼らのアイデンティティの主要な部分を、実は占めているのだということに、なんだか目が洗われた気がした。
 
アラブ人にとっては石油が、自信回復のひとつの大きなきっかけとなったと言われている。石油が発見されるまでは西洋式の背広にネクタイで国際会議に出席していたアラブ人代表が、石油発見以降は伝統的なガラベーヤで参加するようになったという(『地と砂と祈り』)。
もちろん猛烈な暑熱の中では、寒冷地に適した背広よりもガラベーヤの方が過ごしやすいのは当たり前なのだが、それと同時に民族意識の高揚があることも確かのようだ。
 
 
もうひとつ面白い発見があった。
館内には当時の私塾の風景が再現されているのだが、その教室の奥の棚に、なんとインドで見かけたダッパーが並んでいるのである。
それは先日、古道具屋で20ドルで売っていた真鍮製のダッパーと同じもので、生徒たちの弁当らしかった。
現在ではアラブ地方ではまったく見かけなかったが、インドではいまだダッパーは弁当の花形として活躍している。
インドでいつ頃からダッパーが流行し始めたのかわからないが、もしかしたらその起源は、アラブなのかもしれない。これはあとで考察しようと思う。
 
 
 
町の古道具屋で見かけた「ダッパー」。六十年くらい前ので、確か三千円くらいで売っていた。
 
 
 
四時で閉館。
もう少しゆっくり見たかったのだが。
名残惜しくアゼム宮殿をあとにして、旧市街の散歩。
本日は、前回歩かなかったユダヤ人地区である。
ダマスカスのユダヤ人は、ガイドブックによると、イスラエルの建国で多くが去ってしまったそうだ。そのせいか、全体にさらに寂れた雰囲気である。
二階の窓が割れているのは当たり前で、廃屋になった家も相当あった。
無人の家は旧市街のあちこちで見られる。
やはり細い路地の旧市街は、なにかと不便なのだろうか。
例えば駐車スペースがないとか。
そういう廃屋を改装して、モダンなレストランに生まれ変わっている家があちこちに見られた。
旧市街は現在、レストランの建設ラッシュのようだ。
 
細い路地は石畳よりもアスファルトに舗装されている路地が圧倒的に多いのだが、これはつまり、下水道工事が行われたからではないかと、ふと気がついた。
そして頭上を見ると、黒々とした無数の電線が這い回っているのだった。これも後付けで設置されたのだろう。町の景観なんかよりも、実生活の利便性の方がはるかに優先されるのは、どこの町でも同じなのだった。
そしてついには家自体が、現代的なライフスタイルにはそぐわないものとなり、打ち捨てられて廃墟同然になっているのだった。
現在では、高い城壁に囲まれている必要もないし、入口の極端に小さい家に住むのも実用的ではない。旧市街の市民が、郊外に新居を構えるようになるのも当然なのかもしれない。
 
 
もうひとつ街を歩いていて気づいたのは、出窓の幅が一定であることだった。
まるで規格が統一かのように、せり出した幅が一定なのである。
イエメンでは、材木が採れないために、外国からの輸入に頼ってきたという。
そうすると船に荷積みする際に、材木の長さが決定されてしまうので、いつの間にか、どこのマフラージも同じ大きさになってしまったのだという興味深い記事があったが(『季刊旅行人 イエメン特集号』)、あるいはダマスカスの家も同じような要因があって、いつの間にか規格が画一化されてしまったのだろうか。
このあたりの材木は隣のレバノン杉なんだろうが。切り出して運ぶ際に、一種の規格統一が行われたことは想像に難くないのだった。
 
 
日が暮れた頃にホテルに帰る。
明日はレバノンに行こう。
そういえば書き忘れていたが、正午過ぎにひとりで郵便局に荷物の受け取りに行ったのだが、案の定まだだった。
それでいつまで待っていても仕方がないので、レバノンに先に行ってしまおうということになったのである。
 
夕食はいつもの総菜屋へ。
どこのレストランでもたいがいは持ち帰りが行われているのは、アラブ人の習慣として、家族で食事をすることがあるからだろう。
いつも通りスープ二種類ととパンとビール。食事のあとにワインを飲んで、午前二時くらいに床に就いた。