ナガルコットは本当に寒かった。カトマンズの三倍寒い。天気も悪い。それで持っている服をすべて着込んで、このような「ネズミ男」状態に。晴れていると遠くエベレストも望めるそうだが、そんな日は一日もなかった。残念。
 
11,20(日)晴れ
ナガルコットへ
 
朝方には腹の具合もよくなったので、予定通りナガルコットに出発する。昼までに精算を済ませると、一日400Rにディスカウントしてくれて、六泊で2400R。三千円くらいか。偽スレシュに紹介されたわけだが、実に明朗会計で、部屋もきれいだし、いいホテルだった。
荷物を担いで途中のネパール料理店に立ち寄り食事。ダルバートが20Rと安い。
手で食う。だいぶうまくなったと思う。客もネパール人ばかりでしかもみんな手で食っている。米の感触がくすぐったいような感じで、なんだか食べている実感が増すような感じがする。
バグバザールからバクタプール行きのバスが出ており、ちょうど来たのに飛び乗る。ベンツ製のミニバス(しかしベンツとは到底思われない。インド製かしら)で、運転席が左側にあり、無理矢理乗降口を取り付けている。ちなみに手すりは水道管だった。いくつものバス停に立ち寄り、客待ちしながらなので、非常にゆっくりしている。バクタプールに着いたのが二時過ぎ。バスを乗り換えてさらに一時間ほど山道を喘ぎながら登ると、ナガルコットの辻に止まった。バクタプールからナガルコットは非常に混雑した。眺めは最高によろしい。尾根づたいに走るところでは両脇に棚田が望めて壮観。
客引きのにいちゃんについていって、村の最奥の宿、「ウンカイリゾート」に投宿。日本人の奥さんを持ち日本語を話すオーナーと交渉の末、10ドルの部屋に500Rで泊めてもらうことに。部屋はすばらしくいい。たぶん今回の旅行で、今のところ最高にリッチな部屋ではないだろうか。ホテルは尾根の先っぽにあるので窓からは眼下に広がる集落と棚田の広がりが一望できる。すばらしい眺望である。
すぐに日が暮れてきたので、日没前に買い物に出かける。十分ほど村の方に戻り、売店で見たことのない銘柄のビール二本と、地元の密造酒ロクシーを小瓶50R、ビスケット、つまみの豆など購入。どうでもいいことだが、ネパールに来たら久しぶりにダメなレジ袋にお目にかかった。昔はタイもこんな感じのすぐに底が抜ける安いレジ袋だった。日本のレジ袋が貴重で重宝したものだが、その御利益もだいぶ薄まってしまった。
日暮れと同時にすごい寒気が襲ってくる。長袖などあるもの全部着込むが、ズボンの丈が短いので根本的な解決にならない。
ホテルには関西出身のにいちゃんと矢野のおじいちゃんがいてしばし歓談する。チキンダルバート250Rを注文するが一時間以上待たされる。セブ島のモアルボアルのレストランみたいだ。泊まり客があまりいないから作り置きはしていないようで、他の人はあらかじめ予約をしているらしい。
ナガルコットの標高は2100m。とにかくカトマンズの数段寒い。
 
 
 
売店で買ったロクシ。雑穀から作った蒸留酒である。つまり本格焼酎。日本でも十分通用するほどおいしい。「麓酔」とかなんとか名前をつけて発売してみては?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ウンカイリゾートの豪華な夕食。村はずれにあるので、日が暮れると出歩くのがしんどい。だからホテルの夕食となるが、ちょっと高いのが難点である。
 
11,21(月)くもり時々晴れ
ヒマラヤの眺望、望めず
 
早朝のヒマラヤがきれいだという触れ込みのナガルコットである。
早朝六時に起きてみたがきれいに雲がかかっていてなんにも見えない。起きただけ損した。それからまた寝て十時半に起きる。嫁はテラスでひたすら読書。私は室内で日記を書く。部屋からの眺望もすばらしいので、とはいっても曇りがちであまりよろしくはないのだが、時々手を休めて窓から外を眺める。
二時を過ぎたあたりでぶらりと町に出かける。昨日バスが着いたあたりが村の中心で、その先は軍の施設。こちら側は売店とレストラン、ゲストハウスが点々と道沿いに続く。それだけの村である。一本道なので行きと帰りに必ず同じ店の前を通りかかる。すると必ず声がかかる。
「ナマステ。どこ行くんだ?」
「そのへんをね」
「なんか要るものないかい?」
「ないよ」
「あっそう」
店主がいる限り、ちょっと顔見知りになるとすべての売店でそういう会話をすることになる。
日が陰ってくるとあっという間に気温が下がり、風でも吹こうものなら耐え難いほどに寒い。ぶるぶる震えながらホテルに帰る。風呂に入っていないので頭がかゆい。しかし日が暮れると、気温の低下と同時にお湯の温度が急速に下がる。どうも屋上に循環式の湯沸かし器(ソーラシステムではなく黒色の集熱力を利用したもっと原始的なもの)みたいなのがあり、それは黒い管に水を通して温めるというもので、日中はそれでもけっこう温かい水が出るのだが、夜になるとぜんぜんダメなのである。よく見ると貯水タンク自体も黒かった。というわけで二日間、風呂に入らずにいる。
ところでネパール人の体臭に思い当たる節があった。それはかつてアンデスのインディオの家に泊めてもらったときに家の中にこもっていたニオイとまったく同質なのである。それは具体的にいうと足のニオイで、長い間風呂に入っていない人の靴下が発するあのニオイなのだ。私も南米で三ヶ月風呂に入らなかったことがあるが、頭のかゆさも一周間くらいで気にならなくなり、寒いから汗もかかないのでそれほど不快なものではないのだが、足だけは猛烈に臭かった。歩いていても自分の足のニオイが気になるくらいだった。
以前、「山谷崖っぷち日記 著者忘却 角川文庫」という本を読んだときに、山谷のホームレスの体臭についての記述があって興味深かった。風呂から遠ざかって一ヶ月ほどは強烈な刺激臭が発生するのだが、それを越えてしまうと、もっと低刺激的だが、かなり遠いところからでもそれとわかるほどの、あたりに漂うようなニオイに、体臭がその性質を変えるのだという。
私の経験では、まず最初に激烈なニオイを発生し始めるのはさっきも書いたが足である。このニオイはモンゴルのゲルの中にこもっている「なんとなく臭う」ニオイの原因でもある。ネパール人もモンゴル人も冬の間の数ヶ月間は入浴から遠ざかるのだろうから、そのニオイはベッドやソファや、あらゆるものに染みつくのだろう。これが気にならなくなる方法はただひとつ。自分がそのニオイを発するようになることである。
夕食はホテルのレストランで、チャプスイとベジカレー。チャプスイ(chopsuey)というのはツーリスト向けのレストランでよく見かけるメニューだが、これは中華風野菜炒めのことで、よく忘れてしまったけれども、たしか米軍向けの中華料理のメニューとして広まったと聞いたことがある。米国風中華料理で、フィリピンでもよく見かける。しかしここで注文してみたらあんかけかた焼きそばみたいなのが出てきた。
夜はひたすら読書。「東と西 司馬遼太郎ほか 朝日文庫」。司馬遼太郎の対談集。ショールを頭から被って本を読んでいる。
「寒いよー、タイに帰りたいよー」
ブツブツと不平を言う。ここでみつをの真似。
 
タイでは あついあついと 文句を言い
ネパールでは さむいさむいと 文句を言い
人間って 勝手なものなんだなあ
 
みつを
 
 
 
ネパールのコンセントはくせ者である。サイズが違うので、こんなことになってしまった。写真は左からアダプター、変圧器、そして充電器。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ナガルコットは尾根の上にあり、周囲の山々を一望できるロケーションなのだが、連日の曇り空で、ヒマラヤはなかなか顔を出してくれない。しかもしつこいが寒い。
 
11,22(火)晴れ
展望台も不発
 
学生時代に一番影響を受けた本はなにかと聞かれたら、たぶん本多勝一の「マゼランが来た」と答えるだろう。この本で私は「教科書が教えない歴史」に初めて触れたと思う。
マゼランという人は教科書が教える世界史では、初めて世界周航を達成した偉大な人として紹介されるが、実際の彼らは原住民から食料を略奪し、抵抗すれば殺し、女性を強姦しながら移動していた暴徒の集団であったという。
著者はその軌跡を追いながらマゼランの悪逆非道を解き明かしていく。実際、スペインとポルトガルの時代は原住民から金銀を搾取することしか考えてなかったようで、その後のイギリス、オランダの植民地政策と比較すると非常に稚拙で、だから彼らは原住民に非常に嫌われたという。中米のある村では、チフス患者が使っていた毛布を村に投げ込んでその村を全滅させたりという凄惨な殺戮を行っていたらしい。
私が南米に行っていた1992年はちょうどコロンブスが新大陸に到達して500年目にあたり、米国などでは盛大な式典が催されたようだが、私がいた南米ではまったく逆だった。つまり彼らは「500年のレコンキスタ(抵抗運動)」として盛大なデモを行っていたのだ。コロンブス以来の白人の搾取に対する抵抗運動なのだ。これに関して日本でどれだけ報道されたのか私は知らないけれど、日本人はそういう事実をもう少し知るべきだと思う。
例えば南米大陸の真ん中あたりにボリビアという国がある。アンデスの山に囲まれ、南米の中でも最貧国のひとつであるこの国は、人口の90%以上は先住民のインディオで、残りのほんの数%が白人である。しかしこの国の歴代の大統領はすべて白人であり、国会議員のほぼ全員が白人。国家予算の歳入歳出も公開されないのだという(これは地元の大学生から聞いた話でウラは取れてません)。人口のほとんどすべてを占める先住民インディオは、アンデスの高地の、親指大ほどの大きさのジャガイモとトウモロコシくらいしかできない痩せた土地に、まさに地面にへばりつくようにして暮らしており、ごく少数の白人支配者たちは盆地である首都ラパスの中でももっとも標高の低い(従ってもっとも暖かい)地域に邸宅を構えて暮らしている。国内の基幹産業やビール会社などの大企業はすべて彼らが握っており、同時に彼らは国会議員でもあり、その権益が脅かされる可能性はゼロに等しい。この状況はフィリピンなんかも同じだと思う。
南アのアパルトヘイトが国際問題になったのは、それが明文化されていたためで、不文化されている南米やその他のアフリカの国々については、表面上はそういう搾取が行われていない事になっている。しかし白人による500年間に及ぶ搾取はいまだに厳然として、揺るぎなく、綿々と行われているのが現実なのである。
500年の間に先住民は完全に去勢され、もはや支配層に立ち向かうことは二度とないだろう。彼らにはその教養もないし、教育を受けないように(つまり高等教育を受ける経済力を持たないように)コントロールされているからだ。彼らの大部分はトヨタが米国の企業だと思いこんでおり、日本という国がどこにあるのか、どういう国であるのかすらの知識も持たないのだ。
しかし先住民たちはそれでも平和に、幸せに暮らしている。
それでいいのか、それではいけないのか、私にはわからない。しかし私は部外者として、義憤だけは感じた。
インドやネパールでも英国植民地として搾取された歴史があるわけだが、南米よりもずいぶんましだと思うのは、白人が支配者として君臨する構造ができあがってしまう前に独立したことだと思う。それと母国語が残ったこと。ボリビアでは母国語であるアイマラ語を解せずスペイン語しかわからない人が増えつつある。
誇らしげに英語を話すネパール人に出会うたびに、私はなんだか複雑な気分になるのであった。
そんなことを昨夜、深夜三時に起きてからつらつらと考えながら朝を迎える。またしてもヒマラヤは厚い雲の向こうに霞んで見えなかった。九時半に起きて、展望台に登りに出かける。道々気になっていた「憲武コーヒーショップ」に顔を出すと、本当にタレントにそっくりな顔の男が顔を出した。
「似てる!」
というと彼はしてやったりという顔をしてニヤリと笑った。
店の屋上の見晴らしのいい席でオススメの親子丼を食べる。なかなかいける。醤油を使っていないようで、ちょっと物足りないが、ネパールの山の中の村と思えばたいしたものだ。おいしい。
歩いて展望台へ。一時間半ほど。途中、軍事施設のまっただ中を通る。チュ氏の「韓国陸軍」の体験談と同じような有刺鉄線や、平均台や、吊したロープなどの障害物がズラリと並んでいて、小隊長らしい人が訓辞をしていた。小隊長がなにかを言うたびに、二十人ほどの一兵卒が、「オス!」とか「ウス!」とか大声で返事をする。障害物の日陰で銃を抱えてサボっているヤツもいて、マスターもきっとこんな感じだったのだろうなあと微笑ましく眺める。
展望台とは名ばかりで、てっぺんに櫓が組んであるだけ。梯子を登るのだが、高所恐怖症の我々はそれを登ることができなくて断念。同じころに到着したネパール人の若い連中はひとり残らずあっという間に登ってしまった。
山頂では東京の吉祥寺でネパール料理店をやっているというネパール人の夫婦?に出会う。店は「ナマステカトマンズ」というそうだ。ふたりとも日本語が話せる。
ネパールは他の国と比べて日本語を話せる人が、なんだかやたらと多い気がするのだがなぜだろうか。
「観光地だからじゃないの?」
というのが嫁の見解。もちろんそれもあるだろうが、しかしそれだけでもないような気もする。日本語を話すネパール人が多いのは、日本語ガイドの希少性を考えれば理解できる。英語ガイドはいくらでもいるわけだから。しかしそれとは別に、なんというかネパール人の気質としてのしたたかさみたいなのを感じるのだ。インドと中国という大国に挟まれ、これといった産業のないこの国が、外国人相手の観光商売で身を立てようとするのは当然のことだろう。そしてインドや中国のように膨大な国土と人口を抱えてふんぞり返っているのとは違う、小国としての世渡りの上手さというか、そういう利に賢いネパール人の気質が、日本という世界でも希有の金持ちで、しかも自国語しか話せないというハンデを持った国からの観光客にターゲットを絞らせた……というような感じがするのだ。日本語なんてマイナーな言語を勉強しても仕方がないというのが世界の趨勢である中で、「日本語が金になる」といち早く見抜いたネパール人に、小国ならでは身軽さ、小回りのよさのようなものを感じるのである(あとから聞いた話では日本に対する親近感というのがずいぶん影響しているようだ)。
というわけで展望台はつまらないのでさっさと下り、チャイとレモンソーダを飲んで一服。さらに下手の村に続く下り坂をブラブラと下りる。学校があり、子供たちの叫び声が響く。学校はどこもうるさい。カム族の村の学校を除いてだが。
ホテルに戻りちょっとぬるめのシャワーを浴びて、そのぶん厚着をしてまた日記の続きを書く。ようやく今日のぶんに追いついた。よかった。
「チャイ」というのは言うまでもなく「お茶」のことだが、この「チャイ」とヨーロッパの「ティー」という発音の分岐点はトルコあたりらしい。このあたりはロイヤルミルクティーと同じで茶とミルクを一緒に煮立てるような作り方をしているようだ。これがパキに行くとミルクは入らず、その代わりに数倍の砂糖が入る。ものすごく甘いが、なんとなくこれがうまい。さすがアッサム州が近いだけに紅茶の香りはすばらしい。モンゴルでも団茶という乾燥茶葉を使ったミルクティーがあるが、味と香りは段違いでこっちの方がうまい。
夕食はトゥクパというスープ麺とマッシュポテト、ベジカレー。味はまずまず。食後、ここのホテルの主、矢野のオヤジさんと話をする。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ホントニそっくりのノリタケのおやじさん。レストランには情報ノートもある。食事もおいしいので、ぜひ顔を出してあげてください。
 
11,23(水)くもり
憲武のオヤジさんについて考える
 
今日もまた靄がかかってヒマラヤは見えず。
九時半に起きてお茶を飲みながら読書&日記をつける。これから出発準備をしてパタンに向かう。面倒くさいなあ。
ところで本を手放すにあたり、印象的だった部分を書き抜いておこうと思う。
「不可触民 もうひとつのインド」山際素男 光文社知恵の森文庫
・肉体労働、動物の死体処理、排泄物処理は不可触民の仕事で、裸足が彼らのシンボル。草履を履くことが許されていない農村がいまでも多数ある。
・カルカッタの植物園には周囲二キロもある一本のバニヤンツリーがある。
・歴史的に、インドの回教徒、仏教徒、キリスト教徒は、カースト制度に耐えきれずに改宗した不可触民が圧倒的に多い。
・セジュールドカースト優遇措置。指定カーストに対して公共機関、学校、奨学金制度、国会議員などに、平均15〜18%の雇用枠が与えられている制度。
・不可触民がヴェーダ(バラモン教の聖典)を盗み聞きすると、耳に溶かした鉛を注いだ。
・「浄、不浄の観念」
・アムネスティは世界の拷問国ワーストテンにインドを入れている。
・ゴキブリ責め〜ゴキブリを集めて泥土に詰め、ヘソの上に載せて金属の容器をかぶせてガンガン叩くと虫が驚いて下に潜ろうとする。さらに容器を火で炙ると、熱くてさらに潜ろうとする。するとヘソの柔らかい部分を爪でひっかく。三分以内に中止しないと発狂すると言われている。
・インド憲法は世界一長文の憲法である。
 
憲武でポストカードを十枚購入。100R。
オススメのオムライスを食べながら情報ノートを読む。
「旅行者はぼられてもいいからもっと金を使うべきだ。観光立国のネパールにもっと金を落とすべきだ」
という書き込みに、さらに同感の書き込みがあり、その下には、
「そういう考えがネパールをダメにするのだ」
という書き込みがある。それで昨日ウンカイの情報ノートにあった書き込みを思い出した。それはおおむねこんな内容である。
「誰かテレビ局にコネのある人、憲武のオヤジさんを紹介して下さい。そうすれば憲武も繁盛するし、ウンカイリゾートも助かります」
そしてその書き込みの下には、
「俺はこのままでいて欲しいなあ。テレビ局に知り合いはいるけど」
それで私も考えてみた。自分ならどっちだろうか。
嫁に聞いてみると後者だという。つまりこれ以上観光地化されて日本人が押し寄せて欲しくない。アメリカ人と日本人が行くところは間違いなく物価が上がるというのは私の友人の説だが、まさにその通りだと思う。日本のテレビ番組で紹介されて、似ているというそのタレント本人でも来ようものなら、日本人観光客だらけになってしまうだろう。
では私はどうだろうか。
私はどちらかというと前者なのである。
なぜかというと、たぶん憲武のオヤジさんがそれを望んでいるだろうからだ。
ウンカイの奥さんはどうかわからないけれど、たぶんネパール人の旦那さんの方もそれを望んでいると思う。憲武のオヤジさんはそれで大儲けをして財をなし、知名度の上昇とともにナガルコットには日本人ツアー客が連日のように押し寄せる。物価は跳ね上がり、高給リゾートホテルが建ち並び、バックパッカーが訪ねる余地はなくなる。
まあでもいいんじゃないですか。憲武のオヤジさんが幸せになるんだから。
彼がここまで旅行者に愛されているのは、単にタレントに似ているからというだけではない。旅行者に好かれる愛すべきその人柄によるものなのだ。
日本人がたくさん世話になっているのも事実なんだし、何かの形でチャンスをつかめるのなら、それはいいことだと私は思うのだ。ネパールでお金を儲けるということがいかに大変か、プルナと会って私は実感した。だから憲武のオヤジさんにはチャンスをつかんで欲しいと思う。それに「このままでいて欲しい」というのは単なる旅行者のノスタルジーであり、逆の言い方をすると、
「このままみんな貧乏でいてくれて、我々バックパッカーが気軽に立ち寄れる、物価の安い村のままでいて欲しい」
ということで、それはなんだか旅行者のエゴイズムのような気がするのだ。
とは言っても、確かにツアー客がわんさか押し寄せるようになって欲しくないのは事実である。金持ちになった憲武のオヤジさんというのもなんだか想像できないし。
そこそこに儲けてくれているいまの状態が、我々にとっては有り難い状態であることは間違いない。
さて、十二時半にバクタプール行きのバスに乗り、午後三時過ぎにパタンに到着。バスターミナルのあるラガンキル近くの「マウンテンビューゲストハウス」に投宿。350R。シンプルで清潔だが夜はやや暗い。今日は一日曇っていたので、お湯シャワーは出ない模様。靴下がないので洗濯をする。
スレシュさんに電話して、夜七時半に王宮前で待ち合わせをする。
ホテルを出るときにスタッフに「門限は八時半」という信じられないことを言われる。そんなホテル聞いたことないぞ。……まあいいか。
王宮近くの高そうなレストラン「layeku kitchen」でカレーを食べる。いままでの旅で一番うまいカレーだった。しかし値段はチキンカレー185Rと非常に高価。
スレシュさんと待ち合わせて自宅にお邪魔する。王宮裏の一等地のひょろっとしたビルがそれ。四階が居間、五階がスレシュさんの部屋。部屋は非常にきれいでダブルベッドがひとつ、ソニー製のステレオ、日本のマンガ、CDなど、家財道具は少ないながら我々とほとんど変わらない生活のようだ。結婚式の招待状500通をこれからチェックしないといけないそうで、早々においとまする。明日八時半に再訪する予定。