「カラシニコフおじさん」ことアリ・カシムさん。アミン氏の隣人である。実際彼は二十年以上も軍隊に勤務しており、AK47がたいそう似合うのであった。一見して山賊の頭領のようだが、大変親切な人なのである。
 
8月7日(月)
アミン氏ツアー第六日目〜
アルギャージン村のアミンさん
 
翌日は荷物を車に積み込んでから朝食。昨日買ったハチミツを揚げパンに浸けて賞味しながら、チャイをすする。
タイズからアミン氏の自宅のある村まで二時間ほど。
途中で迎えに来てくれたアミン氏と合流する。
山道の舗装路からダート道に変わり、さらにそこからひどい悪路になる。
四駆車でないととても通れないような道である。
車は岩だらけの山道を悪戦苦闘しながら越え、最後はワディの川床を抜けて、集落の隅っこに停車した。
そこがイブ市郊外の農村、「アルギャージン村」であった。
アミン氏の実家は、車を停めた雑貨店の前から三分ほど山道を登ったあたりにある平屋であった。
荷物を担ぎ上げて、ひと休みしてチャイをすする。近隣の女性以外の住民が揃って顔を出す。ほとんど村中の子供たちが集まったかのようだ。
アミン氏宅のマフラージがいっぱいになった。
まだ午前中なので、カートをやっている人は少ない。
 
アミン氏他、数人の男たちに連れられて、畑を見物に出かける。
家の回りはカートとトウモロコシの畑であった。
イラクサとサボテンとリュウゼツランで、畑はくまなく「武装」してある。
ところどころに小屋がかけてある。
なんのためか尋ねてみると、滅多にないことだが、カートドロボウが出るのだそうだ。
そういうときにはカラシニコフを持って、ここの小屋にがんばって見張りをするのだという。
イエメンでは盗みを犯すと本当に手首が切り落とされるそうで、だからドロボウは他の国と比べて極端に少ないという。おおむねイスラム社会で犯罪が少ないのは、このイスラム法のおかげらしい。
だからカートドロボウが出るという話はちょっと驚きであった。
 
この時期は新芽を摘み取ったあとで、次の新芽が出てくるまでは作業はないようだ。トウモロコシもまだ実が十分に育っていない。
だから村人は、特に仕事がないらしく、午前中はブラブラして、午後はどこかからカートを仕入れてきて、誰かの家のマフラージでカートパーティをして、日が暮れる頃にはけて家に戻り、軽く夕食を食べて寝る、という毎日らしい。
なんに事件もない単調な、平和な毎日なのであった。
 
家に戻ると昼食であった。
招待された客は、隣近所の男たちで我々も含めて全部で十二、三人。
サルタとファッタ、スパゲティ、ヘルバというトマトスープのおじや、ホブスなど。
食事が終わると、さっさと立ち上がってマフラージに戻ってしまう。
 
 
 
食べ物は基本的に手づかみである。「ファッタ」という、千切ったパンをスープでひたひたに浸した料理が人気メニューである。いつも我々が食べる間もなく、真っ先になくなってしまうのであった。
 
 
 
他の人の食事が終わるのを待っているということはない。
これはモンゴルでもそうだったが、遊牧民というのは、それぞれ自分の仕事があるので、腹が減ったら適当に戻ってきてメシを食い、また仕事に戻っていくという感じで、家族全員で一緒に食事をしたりする習慣がないのである。
イエメンの人たちにもそういう考え方が定着しているのだろう。そしてもうひとつ穿って言うならば、ベドウイン特有の、
「自分の用事が済んだら、あとは知らない」
という考え方も根底にあるのかもしれない。
いつも食事の最後に残るのは我々三人とヤヒヤ氏であった。このおじさんは最初から最後まで食べている。
特に肉をよく食べる。六十三歳にして健啖である。
 
マフラージに戻ってアミンさんを通して雑談などしていると、カートを持参した村人が次々に顔を出す。カートパーティーは少ないときで十人前後、多いときは二十人以上集まって行われる。たいがいは客人がある村人の家のマフラージに、それぞれカートを持参して集合し、まったりとカートを噛みしめながら時間が過ぎていく。
カートはゴルフボール大に頬が膨らんだあたりから効き目が現れてくるものらしい。
我々にもひとわたりカートが配られて、千切っては口に含む。
青臭い香りが口中に広がる。
噛んだカートを左側の歯茎の外に押しやって溜めていく。
よく観察していると、カートを左右どちらにも溜めている人がいる。数えてみると、
右頬に溜めている人……5人
左頬に溜めている人……10人
となった。私も無意識に左側に溜めたのだが、嫁は右側であった。阪口は左である。
しかしある程度溜め込んで効き目が現れてくると、反対側に「引っ越し」をさせる人もいるそうで、特にどちらかにこだわっている人はいないようだ。
 
カートに関しては、私は目立った効き目は現れなかったのだが、口の中から喉、食道にかけて腫れ上がったようになり、食べ物を嚥下するのがとても辛くなった。
唾を飲み込むのにも痛みが生じるのである。
カートをやると食欲がなくなるというが、まさにその通りで、その晩の夕食は文字通りまったく喉を通らなかった。
無理して食べ物を嚥下すると、それが喉から食道を伝わって、ゆっくりと胃に落ちていくのが実感として伝わってくる。
それほどそのあたりが腫れ上がっているのだった。
 
従ってイエメンでは昼食がメインになる。
夕食はベンズという豆の煮込みと昼の残りのホブスくらいで軽く済ませるし、朝食も似たようなものである。夕食自体を食べない人もいる。
昼食でカロリーを溜め込み、カートでまったりとし、そのまま日が暮れて寝てしまうのである。アミン氏を始めイエメンの男たちは、ドバイやオマーンの男たちのようにでっぷりと太った体格のいい人は少なく、どちらかというとインド人のような細身の人が多いのだが、その理由は、おそらくこのカートの習慣によるところが大きいのだろう。
 
 
 
お香を焚く。炭火の上に、ミルラ(乳香)の細かい破片をパラパラと撒くと、白い煙とともに強烈な香りが漂ってくる。「ミイラ作りに欠かせなかった」というのは、要するに「死臭を消す」ために必要だったのだ。
 
 
 
そうやって初日の午後はまったりと過ぎていった。
日が暮れる頃になると、
「さて、そろそろ」
という感じで各自立ち上がり、三々五々と自宅に引き上げていく。
残った家人が散乱したカートの葉っぱを拾い集める。
日本人なら、最初からゴミ箱に捨てればいいのにと思うのだが、そういうことは絶対にしない。
葉っぱはチマチマせずに、ばんばん床に捨てていくのが、カートの醍醐味というものなのだろう。
 
その間に嫁だけが、女たちが集まる隣の家に招待された。阪口が、
「オレは行ってはいけないのか」
と尋ねると、アミン氏は言った。
「死にたいなら行ってもいいぞ。ここにいる全員がカラシニコフを持っているからな」
女たちの部屋に男が行くことは、重大な紳士協定違反なのである。これを犯したものはカラシニコフで撃たれても文句は言えないのだ。
もちろん自分たちの妻や姉妹、娘もいるわけだから、彼女らを守るという意味もあるのだろうが、それ以上に、
「抜け駆けは許さん」
という意味合いの方が、なんとなく強いような気がした。
ちなみにアミン氏に、
「もしも我々(私と阪口)が、あんたの奥さんの素顔を見てしまったら、どういうトラブルが発生するのか」
と尋ねてみた。
「それが偶然のことなら問題ない」
「じゃあもしも、こうやってドアの隙間から覗き見たらどうなるのか」
「ぶん殴る」
「……」
明快である。
ムスリムにおける「女性を守る」という意識と「隔離する」という考えは、表裏一体になっている。しかし最初はまったく我々の前に顔を出さなかったアミン氏の奥さんも、最終日になると阪口の写真を見物にマフラージにやってくるようになった。
だからある程度の信頼が構築されれば、まったく敬遠されて出てこないということもないようだ。
 
 
 
アミン氏のお母さん。明朗快活で、とてもさばけたいい人である。写真もまったくOK。
 
 
 
それで「女の部屋」に出かけていった嫁であるが、それから二時間ほどして、ものすごい厚化粧を施されて戻ってきたのである。
数十人の女たちに囲まれ、大音響の音楽がかかる部屋でダンスを踊らされたのだそうだ。貞淑そうなムスリム女性だが、女性だけの世界になると、なかなか活発なのであった。
その女性の部屋では、ずいぶん待遇が悪かったという。
例えば男のマフラージには絨毯が敷いてあり、電気も調度品も整った部屋だが、女の方はコンクリートの床にビニールシートが敷いてあるだけで、肘置きがいくつかころがっていたという。
部屋には小さな窓がひとつだけで、しかも外から見られないように空き缶を並べてあるので、内部はほとんど真っ暗だったという。
シーシャが出されたけれど、タバコ自体が粗悪品で、男が吸っているような上等なものではなかった。
そして女たちが噛んでいるカートも、若芽の柔らかい部分はすべて男たちが持っていってしまい、やはり質の悪い固い葉ばかりのものだった。
両方を知っている嫁にとっては、その差は歴然としていたらしい。
そしてその晩、寝るときになって、アミン氏がマットレスを三つ運び込んできた。
そのうちのひとつだけが、ずいぶん丈が短いのだが、アミン氏は、そのひとつだけ短いマットレスを、当然のように嫁のぶんとして敷いたのである。
「ナオコはこれで寝なさい」
嫁はムッとして、阪口のマットレスと取り替えた。
女性は男の従属物であるから、守るべきものであり、隔離しなければならない。
それがイスラム的な女性観なのであった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北部と比べて、南部の方がわりと皮膚の色が黒い人が多くなった。エチオピアやソマリアの血が濃くなったせいだろうか。服装は丈の長いアラブ服よりも、インドの「ルンギ」に近い「メオワズ」が圧倒的に多くなる。
 
8月8日(火)
アミン氏ツアー第七日目〜
スークで仔牛の解体を見物
 
早朝五時過ぎに、隣家のアリおじさんが迎えに来てくれた。
本日は早朝行われるという、スークでの牛の解体を見物に出かけるのである。
アミンさんも起きてきて、五時半過ぎに出発した。
スークはアミンさんの家から歩いて四十分ほど。車の通れない山道を通っていく。
もうひとつ車道もあるが、そちらはかなり遠回りになるという。
カード畑を突き抜けて、岩肌が露出した、けっこう急な坂を上ったりして、ちょっと疲れが出てきた頃にスークに到着した。
そこは市場というよりも、小さなワディにいくつかの小屋が寄り集まったという感じであった。朝早いこともあって、人もほとんどおらず、店らしい小屋も鎧戸を閉めてひっそりとしている。
早朝の水汲みに向かうロバを連れた子供たちが通りかかる。
五分ほど待っていると、仔牛を一頭連れた男がやって来た。
「あれだあれだ」
アリさんは男を指さす。
仔牛はしきりに鳴いている。やはり自分の運命を察知しているんだろうか。
「そら、すぐに始まるぞ」
と言う間に、男は日本の包丁を取り出して地面に置くと、息子らしい若者とふたりで仔牛を横倒しにする。
仔牛が嫌がって暴れ出しす前に、男は素早くハラールを唱えると、鮮やかな手つきで仔牛の喉元をかき切った。
どっと血しぶきが飛んだ。
包丁はよく切れ、仔牛の首は、数秒後には皮一枚で胴体とつながっているだけになった。
どうも牛の方が生命力が強いようで、首がかき切られても、二、三分はバタバタと体を動かしていた。
しかしそれも痙攣程度におさまったところで、左脚のひずめのあたりに包丁を入れる、いまだに痛みを感じるのか、仔牛の身体が一瞬大きく波打つ。
包丁を腱に沿ってタテに入れ、腱と骨の間に空間を作ると、男は息子とともに仔牛の身体を抱え上げて、テントの骨組みについているフックに引っかける。仔牛は宙ぶらりんになった。すでに大きな痙攣もおさまっている。
男は四つ脚のすべてのヒヅメを切り落として、最後に右前脚のヒヅメを切り落とす時に長めに皮を残した。その皮を、テントを支える鉄パイプの支柱に縛り付けた。
これで仔牛の身体がフックを中心にクルクルと不安定に回転することを防ぐのである。
それからの手順は、ヤヒヤ氏の解体と大筋で同じだったが、大きく違うのは、皮をはぐ作業の前に内臓を取り出したことである。
そしてもうひとつ違ったのは、小腸に口を当てて空気を吹き込んだことだ。
腸はぷっくりと大きく膨らんでいった。おそらく大腸から流し込んだ水で糞を流し去るためだろう。
もうひとつ面白かったのは、仔牛の切り落とした生首の耳の部分に切れ目を入れて、これもフックに吊したことである。
これはたぶん、解体したばかりであること、つまり肉の新鮮さをアピールするためだろう。
消化器系の内臓を取り出して洗ったりしたあとは、皮剥が始まった。
ふたりがかりなので、二十分ほどで皮剥は終了する
残りの臓器を取り出して一輪車にいっぱい溜めた水に浸けたあと、尾骨から背骨の中心をナタで叩き割っていく。
仔牛の身体は左右にきれいに二分され、完全な枝肉となった。
これまでの作業がおよそ四十分ほど。まったく無駄のない職人芸であった。
仔牛の解体が終わると、本格的に店の仕立てが始まり、テントを補強したり、まな板を取り出したりして、あっという間に露店の体裁が整った。
よく見ていると、死んでから三十分以上も時間が経っているのに、筋肉がぴくぴくと引きつれている。肝臓なんかも水の中でぴくぴくと動いている。たいした生命力である。
 
 
ひと通り解体が終わったところで、ちょうど食堂が開店し始めたので、そのうちの一軒にみんなで入った。
靴を脱いで上がり、地べたに皿が並ぶというアラブスタイルである。
豆の煮込みとホブスとチャイ。足元にカラシニコフを置いて食事をするアリ氏は、まるで盗賊の頭領のように見える。
アリ氏は二十年以上もイエメンの軍隊に勤務していたそうで、がっしりした身体をしている。
 
 
 
イブ周辺は、イエメンでもっとも降雨量の多いところだそうで、山は深い緑に囲まれている。ルブアルハリの地獄のような砂漠に比べたら天国である。まさに「幸福のアラビア」なのであった。
 
 
 
帰りは来た道ではなくて、遠回りの車道を歩いた。車道とはいっても相当起伏が激しくてけっこう疲れた。
途中、向こうから歩いてくる人とは、例外なく立ち止まって握手する。
そしてそれは、たいがい簡単な立ち話になるので、非常に時間がかかる。ちょっと親しい人になるとその立ち話も長くなるので、なかなか進まない。
この国では、要するに社交辞令が大変重要なのである。
ちょっとでも知り合いであれば、必ず握手をして親愛の情を示す。それがさらに親しくなると抱き合い、相手の手の甲にキスをする仕草をする。
少しでも敵を少なくするための知恵なのだろう。
これはパプアニューギニアでも同じだった。
とにかく少しでも面識があれば挨拶して握手する。それが他部族の有力者ならそのプライオリティはさらに上がる。
そうやって敵を作らず、同時に味方に取り込んでいくのが、世界共通の部族社会の処世術なのである。
二時間近く歩いただろうか。
ようやく帰りついたら、そろそろ昼食という時間であった。
食事は昨日と大差なく、羊肉の煮込みとファッタとサルタなどである。我々の食指はおおむねサルタとピラフに向かう。
 
食事のあとはまたカートパーティーである。
この日は昨日に懲りてカートは控えた。
喉はだいぶんよくなったとはいっても、いまだ腫れ上がっていて、イガイガした感触が残っているのであった。
カートはしばらく懲り懲りである。
ヒマなので、アミン氏にいろいろとプライベートなことを質問してみた。
 
アミン氏は三度結婚している。
一度目は親の紹介で隣村の娘と結婚した。
アミン氏が二十二歳、相手は十七歳だった。
結婚にはおよそ80、000リアル(当時のレートは不明だが、仮に現在のレートで計算するとおよそ5万円)かかったという。
しかし考え方の違いで離婚することになってしまった。
離婚の場合は男性の方が慰謝料を払う。慰謝料は25グラムの金であった。
 
 
 
阪口がヤヒヤ氏のジャンビーア、ターバンなどを貸してもらってイエメン人に「変装」。ターバンの巻き方にも地方によりいろいろあるらしい。面白い研究テーマである。
 
 
 
二度目の結婚はサナアの仕事先で知り合った女性であった。
アミン氏が二十八歳、彼女は三十歳であった。
今度の結婚は親や知人の紹介ではなくて自分で決めた。結婚資金は600、000リアル(現在のレートでは、およそ35万円)。
しかし一年半で離婚した。
理由は相手の家格がアミン氏と釣り合わなかったからだという。彼女の家はミドルクラスよりもさらに低い下層階級であった。下層階級に属する人たちというのは、例えば散髪業であったり食肉業であったりするという。
相手の家族は、そのことをアミン氏に隠していた。それをアミン氏が知るところとなったのだった。
しかし今度もアミン氏が慰謝料を払った。どういう理由であろうと、相手の女性が慰謝料を請求すると支払う義務が発生するのだという。
 
三度目の結婚相手は、アミン氏の従姉妹であった。
いとこ婚はアラブ社会では奨励されている。結婚資金が少なくてすむし、一族の財産が分割されるのを防ぐ効果もあるからだという(「アラビア遊牧民」)。
実際に結婚資金は45000リアル(およそ二万五千円)ですんだ。
奥さんの実家はアミン氏の壁を挟んだ文字通りの隣家で、アミン氏の母親の姉妹(どっちか聞き忘れたが、おそらく妹)の娘であるという。
アミン氏三十三歳、奥さんが十八歳であった。
 
 
現在の奥さんの妹、セユーンちゃん。サナアでアミン氏夫妻と一緒に住んでいる。おとなしくて可愛い。
 
 
 
以上、かなり立ち入ったお話を聞いてしまったのだが、意外だったのは、親の決めた結婚相手にそれほど従う必要がないのだということであった。
例えば「千夜一夜物語」に出てくるようなアラブ社会では、兄弟同士が、自分たちの息子と娘を結婚させることを、子供が生まれる前から約束しあっていたりするという逸話が出てくる。
しかしこれはアミン氏が男性であるからこその自由であることは言うまでもない。
女性の方はどうかというと、相手がどんな老人であろうとも、親が決めてしまった縁談は断ることはできないという。
アラブ社会では男が生まれると、自動的に従姉妹の誰かと結婚することになっているという。そうでない場合は、娘の親は、おおむね持参金が多い相手を選んで結婚させることになっている(「アラビア遊牧民」)。
六十三歳のヤヒヤ氏にはふたりの妻がいるという。
ひとりは六十歳になるマダムで(ヤヒヤ氏は彼女のことを「アンティーク・マダム」と呼んでいた)、もうひとりは、なんとまだ二十五歳なのだという。ヤヒヤ氏はいったいいくら金を積んだのだろうか。まだ尋ねていないが、おそらくはそういうことなのだろう。
一族の誰かと結婚して一族の財産を保護するか。あるいは他部族の男に嫁いで一族に持参金をもたらすか。
アラブ社会では女性を一種の財産として考えているのは間違いない。
 
 
 
夕食はカートを食べているので軽く済ませる。「ベンズ」と呼ばれる、缶詰の煮豆を調味して煮込んだものが二種類と、昼の残りのホブス。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アミン氏の義理の兄、モハメッドさん。なんとなく「沖縄系」の顔で親しみが持てる。家もお隣さんで、羊の解体をお願いした。包丁を研ぎながらこの笑顔。
 
8月9日(水)
アミン氏ツアー第八日目〜
羊の解体、キッチン拝見
 
今日は、アミン氏ご家族に羊を一頭買い込んでもらい、解体から料理までを見せてもらうことになっている。
昼食がメインなので、解体はやはり早朝から始まった。
執刀するのは、隣家のアミン氏の奥さんの兄でモハメッドさんである。
羊は結局、アミン氏で飼っている一頭をつぶしてしまうことになった。
家の屋上のキッチンの前に羊が引き出され、モハメッドさんがハラールを唱えて喉をかき切る。
包丁の切れが悪くて、羊がかわいそうであった。
身もだえする羊の喉がなかなか切断されず、絶命するまで時間がかかった。
 
 
 
アミンさんの家の羊を一頭譲ってもらっての解体。我々が来なければ、こいつも長生きできたのに……南無三。
 
 
 
モハメッドさんは、これまで見てきたヤヒヤ氏や肉屋のオヤジさんとは比べものにならないほど下手であった。
特に皮剥がなかなかうまくいかない。肉と皮をつなぐスジのような組織を包丁で切り離しながら剥いでいくのだが、その要領が難しいのだ。
包丁が悪いせいもあるのかもしれない。
途中で見ていられなくなったヤヒヤ氏が手伝う。
肋肉を切り落とすところで、私と阪口も途中で触らせてもらった。
肉はまだなま温かくて、筋肉組織がぴくりぴくりと動いていた。
 
 
 
私も少し触らせてもらう。まだ温かみが残っていたものの、こうなると完全に「肉」以外のなにものでもない。特に憐憫は感じなかった。
 
 
 
肋骨を背骨から切り落として、それをさらにいくつかのスペアリブに分ける。
今度機会があったら、ぜひ最初から手伝わせてもらおうと思った。
 
解体された肉は水に浸けられてキッチンに運ばれ、調理された。
糞で汚れてしまったものは別に取り分けて茹でて臭いをとる。
まずは羊のスープ「マラッカ」作りであるが、これはおおむねヤヒヤ氏の作り方と同じであった。
圧力鍋に大量の油でタマネギを炒め、これにトマトを加えて、塩、コショウ、クミン、ニンニクを加え、肉を炒める。
水2リットルほどを流し込んで煮立てて、さらに香辛料と塩で味を調えて、しばらく煮込んでから、フタを閉じ、圧を加えて十五分ほどで完成である。
同じようなスープを別の鍋でもうひとつ作った。こちらには丸のままのジャガイモを五つ六つ加えた。
このスープはその後のあらゆる料理に使用する。
 
スープ作りと同時進行でホブスが焼かれる。
カマドは二カ所あり、ひとつはガス式の「近代カマド」で、もうひとつは泥を塗り固めて作った昔ながらのカマドである。
近代カマドではアミン氏の奥さんがホブスとメロウワを焼き、昔ながらのカマドではお母さんがトウモロコシ粉のパン「ファティール」を焼いた。
ホブスはいわゆるチャパティと同じで、無発酵の小麦粉の生地をソフトボール大に丸めて、マハベザと呼ばれる布製の丸いミット状のものに薄く伸ばして、カマドの内側にベタンと張り付けるのである。
この時には勢いが重要なようで、しかも近代カマドは軽いので、張り付けた拍子にカマドが大きく傾くのである。
その下ではアミン氏がスープの前でしゃがみ込んでいるのである。カマドがひっくり返ってアミン氏の頭上にひっくり返りはしないかとハラハラしていた。
もうひとつのメロウワはもう少し手が込んでいる。
ゴルフボール大の小麦粉のボールをいくつも作り、これを直径10センチほどの大きさに伸ばして幾層にも重ね、最後にホブスと同じくマハベザの上で50cmほどに薄く押し広げたものをカマドで焼くのである。見ているとだいたい九枚から十枚程度重ねていた。
これはおそらくインドのポロタが起源ではないかと思う。
ポロタは南インドでよく食べた。こちらの作り方は、やはり極薄く広げた生地を包丁でいくつかに切り分け、隙間に空気が入り込むようにフワフワとまとめたものを、もう一度平べったく潰して多めの油で焼くのである。
作り方はいくぶん違うけれど、できあがりの食感はほとんど同じである。そしてメロウワの場合はカマドで焼くのであるが、焼き上がったものにバターを垂らすのである。
サナアの街ではこのメロウワをインドと同じく鉄板の上で焼いているのを見かけるが、要するに同じことなのだろうと思う。こちらも無発酵である。
 
一番大変だったのはトウモロコシパン、ファティール作りであった。
まず古い方のカマドに火をおこす。
イラクサの乾燥したのを持ってきてカマドに詰め込み、火をつける。火が安定するまで煙がすごい。
カマドが暖まってくると、口に鉄パイプの仕切を何本か載せて、その上に鍋と薬缶をいくつか載せた。ひとつは内臓を煮込むもので、あとは湯を沸かす。
湯が沸くまでに、トウモロコシ粉と小麦粉をふるいにかける。
割合は1:1であった。
お湯が沸騰すると、鍋に大さじ2ほどの塩を加え、混合粉をドサリと流し込む。そして長さ60センチほどの木杓子で力いっぱいこねるのである。
お母さんの額には玉の汗が浮かぶ。
こね上げた生地は、いったん取り出して、アツアツのものをフリスビーほどの大きさに厚めに練り上げる。これを四つほど作り、その頃には十分熱を持ったカマドの内側に張り付けていく。表面に塗る白い液体は牛乳であった。牛乳を塗ることで、しっとりと焼き上がるのだそうだ。
火はすでにおきになっている。カマドの中では同時にファッタとサルタ用の土鍋「マシャラ」が温められる。
ファティールは焼き上がるのに一時間ほどもかかるという。
 
主食の準備はこれで終了し、最後にサルタとファッタ作りである。
ファッタは昨日の残りのホブスと、さっき焼いたホブスの何枚かを細かく千切り、これを十分に熱した土鍋に盛り上げて、羊スープを注ぎ入れる。土鍋にあたったスープは「ジュワー」とおいしそうな音をたてる。
ひたひたになるまでスープを注ぎ、フタをしてしばし蒸らすと完成である。
ファティールのファッタは作り方が少し面倒である。
焼いている途中のファティールをひとつ取り出してきて、大きめの土鍋に割り入れ、これにスープを注ぎ入れる。そしてまた例の木杓子で練り上げるのだ。
これもなかなか力が要る仕事である。
練り上げたファティールを、鍋の外側に沿って土手のように盛り上げ、中央に開けた穴にスープを注ぎ込む。これで完成である。
 
最後にサルタは、スープで煮込んだジャガイモを何個か取り出す。これを熱していない土鍋で潰して粗いマッシュポテトを作る。これにスープを注ぎ入れ、ガスコンロで煮込む。グツグツと煮立っているのを供する。
 
サルタができあがる頃には、すべての料理はほぼ完成である。
朝九時にホブスをこねるところから始まり、午後一時の昼食まで、およそ五時間、お母さんとお母さんの妹(アミン氏の奥さんの母親)とアミン氏の奥さんとアミン氏四人が、かかりきりになって、ようやく完成した。まさに戦争のようであった。
しかしこれで今日の昼食、夕食、明日の朝食の三食分を、ほぼまかなうので合理的ではある(夕食には豆のシチュー「ベンズ」があるが、これはおそらく缶詰である)。
これを私たちも含めた家族と近隣の村人十人近くの男たちが、むさぼり食うのである。
男たちが食べ終えた残りは、子供と女たちに回される。
 
こうして料理ができあがった頃には、我々はもうお腹いっぱいであった。
せっかくのご馳走だが、喉を通らず、羊肉も一切れ食べただけであとはヤヒヤ氏にあげてしまった。
 
こうやって毎日大量の食事が作られているわけだが、いったいどれくらいの食物が消費されているのだろうか。
アミン氏によると、一ヶ月に小麦50キロ、トウモロコシが25キロを消費する。
小麦はおよそ3000リアル、トウモロコシは自家で作っているが、それでは足りないので若干買うことになる。
米はパキスタンからの輸入米で、他の穀物と比べると非常に高い。50キロで8000リアルはするという。イエメンでは稲作は行われていないので、もっぱら輸入米に頼っている。
米の消費は南イエメンやハドラマウト地方が多いという。この地域にはインドネシア系が多いそうなので、そのせいかもしれない。
 
これらの穀物を一日に換算すると、およそ2.5キロから3キロほどで、米にすると一升五合である。アミン氏の家では通常、両親と兄だけなので、ひとり五合ほどの穀物とベンズの缶詰の食事でまかなっていることになる。
羊肉とファッタやサルタが、ご馳走であることは間違いない。
山羊や羊は解体しても、一家族で食べきれるものではないので、近所の人を呼んでご馳走することになる。肉がないとファッタもサルタも作れないのである。
あるいは市場に行って肉を買ってくることになるが、昨日見ていたところでは、一キロの牛肉が100リアルであった。
それ以外は、どこかの家で、なにかのイベントがない限り、これらの食事にありつくことはできないのである。
 
イエメンのひとりあたりのGNPは300ドル程度でしかない。
アミン氏の実家では、現金収入はカートによるものしかない。
カートは次に雨が降ったら二週間ほどで新芽が出てくるので、それを摘み取って売るという。実家にはカートの木が300本ほどある。
これからの収入が、一年で300ドルから1000ドル。
時期によってカートの相場は異なってくる。
この年収で一頭最低30ドルはする山羊を、簡単に口にすることはできないだろう。
ちなみに家畜の値段は、およそ以下のようであるという。
 
山羊  5000〜12000リアル(3000円〜7200円)
ロバ      〜70000リアル(〜42000円)
牛 50000〜120000リアル(30000円〜72000円)   
 
 
毎日、昼食のあとは、まったりとカートパーティー。今がたまたま農閑期ということもあるのだろうが、それにしてもまったく働かない人たちなのである。「これでいいのか!?」と日本人は思うわけだが、実はこれでぜんぜんいいのであった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
曇っていてよくわからないかもしれないが、アミン氏の足元は、数百mの断崖絶壁である。この崖っぷちのはじっこまでカート畑が広がっている。「そこまでして……」とも思うのだが、カートが商品作物でることを考えれば、彼らも生活がかかっているのであり……いや案外、自家消費用かもしれないよなあ(笑)
 
8月10日(木)
アミン氏ツアー第九日目〜
断崖絶壁の段々畑に足が震える
 
本日は午前中は車で出かけることにする。
アミン氏と、その友人たち三人とヤヒヤ氏と我々である。ワディに下って、ワディ沿いに車を走らせ、以前に訪れたスークを見下ろしながらさらに山を登っていく。そのどん詰まりの村で車を降りて歩き始める。
ものすごいガケであった。
その断崖絶壁に石垣を丹念に積み重ねてカートの段々畑が遙かに見下ろせた。
茶畑と同じく、カートも日当たりのよい高地の斜面が適しているようだ。
そういえばサナアに帰る車から、ブルーシートで日よけをした畑がいくつも見えたので、アミン氏に質問してみると、やはりそれもカートであった。
日覆いした方が柔らかい葉ができるのだろう。玉露茶と同じなのであった。
 
身の危険を感じるほどの崖っぷちの、カートとトウモロコシ畑の中を歩いていく。途中で盛装した男たちを満載した四駆車がやって来て、崖っぷちで停まった。
結婚式であった。
ガイドブックによると結婚式では、徹夜カートでハイになった男たちが車で繰り出してきて、崖っぷちでジャンビーアダンスを踊るのだそうだ。
まさにこれがそうだった。
十数人の男たちが抜き身のジャンビーアを振り回して踊り始めた。
真っ白いアラブ服に黒い背広を着た男たちは、一見してアラブのマフィア風である。間違いなくカラシニコフも持っているだろう。
その中でひときわ恰幅のいい、巨大な体躯の男が、
「お前たちも踊れ」
と言う。
ちょっと怖かったけれどお断りした。
記念写真を撮ると、また車に乗り込んで走り去ってしまった。
ここで停まったのは、おそらく我々に対するサービスだったのではないだろうかという気がする。
 
 
 
ジャンビーアを抜いて踊り出す男達。勇壮であるが、「なんでここで?」という素朴な疑問が残るのであった。やはりラリッているのかしら?
 
 
 
途中に要塞のような大きな邸宅があった。石積みの高い塀に囲まれていて一見して城のように壮大な建物である。
アミン氏によると、それはこの地域を支配する部族「アルギャージン」のシャイハ(部族長)の居城なのだった。
アミン氏の名前は、正式にはこのようなものである。
「アミン・ムハンマド・ガシム・アハメド・アルギャージン」
アラブを始め中央アジア一帯の遊牧民には名字がないそうだ。
その代わり、自分の名前のあとには父親の名前が続き、さらに祖父の名前が続き、曾祖父の名前が続いて、最後に所属する部族の名前で終わるのである。
モンゴルでも同じで、自分の名前のあとに父親の名前がつく。
そしてそれはミャンマーも同じである。
ビルマ族はチベットから南下してきた民族だと言われているが、もしかしたらもとは遊牧民だったのかもしれない。
 
車に戻ってアミン氏宅に戻る。本日は特にすることもない。
今日はこの地域で合計五組の結婚式が行われているという。
昨夜は祝い事のある家では花火が上がり、カラシニコフが乱射され、各家ではお祝いのために屋上にケロシンで火を焚いていた。
アラブでは結婚式は男女別に行われる。
この村からは残念ながら新婦側の家族しかいないので、男は参列できないのだ。
我々を代表して、昨日、嫁が結婚式に顔を出した。
帰ってきて様子を聞いてみると、いつものカートパーティーと同じくジュースが一杯出たあとは音楽にあわせて、みんなが踊っているというだけで、特になにも変わらなかったそうだ。
おそらく男の方はもっともっと盛大なのに違いない。
女性の待遇はやはり悪い。
 
「女の部屋」に拉致された嫁は、腕中に「ヘンナ」を描かれて戻ってきた。ヘンナは染料に使われる木で、インドでもけっこうよく見かけるのだが、どちらが元祖なんだろうか。広辞苑によると西アジア原産らしいのだが。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ロバの口をびよーんと伸ばしてみせる男。これ、私も南米でよくやったのである。ロバの唇はとても柔らかくて、なかなか感触がよく、しかもよく伸びる。ちなみにロバの年齢を知るには、こうやって口を開けて歯の減り具合を見るのであった。
 
8月11日(金)
アミン氏ツアー最終日〜
そしてサナアに無事帰還
アミン氏のお宅は、全体的にとても居心地がよかったのだが、唯一大きな問題があった。
それはなにかというとベッドバグである。
初日から虫さされに悩まされ始め、二日目にはかゆくて寝られなくなり、三日目には辛くなって、ついにサナアで買っておいた殺虫剤を持ってきた。
我々が外出している間に、マフラージに噴霧してくれたらしいが、ほとんど使っていなかった缶が空っぽになっていた。
この一室だけに全部使ったのか、あるいはついでに他の部屋にも噴霧したのかわからないが、とにかくびっくりした。
ひと缶400リアル(240円)もするので高級品であることは確かだ。
 
あとで聞いてみると、マフラージに敷いてある絨毯は子供が汚すので、お客さんが来たときだけに敷き、あとはしまってあるのだという。
この絨毯にダニがついていたものだろうか。
殺虫剤を噴霧したあとにも阪口がたくさん刺されていたのを考えると、彼だけが使っていた毛布にダニがいたのかもしれない。
イエメンの家はたいがい窓が小さくて採光が不十分であり、しかも絨毯に食べ物を落としても軽く掃くだけだから、ダニが繁殖しやすいのである。というよりも温床と言った方がいいのかもしれない。
とにかく体中を刺されてかゆくてたまらなかった。
サナアに戻って数えてみたら、100カ所以上刺されていた。
 
いつも通り豆とパンとチャイの朝飯を食べてから荷物をまとめる。
ご家族と握手してお別れ。
ご両親は車まで見送りに来てくれたが、近隣の人、例えばアリおじさんは来てくれなかった。
そのご両親も、車が出発する前に、さっさと帰ってしまい、日本人の感覚からすると、なんともさばけたというか、あっさりしたものなのであった。
やはり「用事が終わったらあとはどうでもいい」という人たちなんだろうか。
 
途中、阪口のリクエストで、河原の洗濯風景を撮影してから出発。
水汲み場にはロバを引いてきた子供たちが盛んに水を汲んでいた。その横で女たちは洗濯している。まさに井戸端会議の風景であった。
一路サナアへ。
同乗しているのはドライバーヤヒヤ氏、その隣にアミン氏、その姪のサユーン、奥さん(ブシュラさんというらしい、というのは嫁の情報である)、後部席に我々である。
山岳地の乾燥した土地が広がっている。
しょぼしょぼとした灌木がポツリポツリと、まるでなにかの偶然で、そこに生えてしまったかのように、貧弱な枝葉を伸ばしている。
砂漠の木は珊瑚に似ている。
珊瑚は干潮になったときの海面ギリギリまで、その枝を広げてるけれども、海面を越えることは絶対にない。
砂漠で見る灌木も同じなのである。
ある程度の高さまで伸びてしまうと、そこから先は横に広がっていく。椰子の木のように高さを競ったりしないのである。
それ以上伸びても浴びられる太陽光線は同じだし、他にライバルもいないし、伸びればそれだけ砂嵐にさらされてつらいし、水分が必要になって無駄なので、それ以上伸びようとしないのである。
問題は高さである。
いずれの木も、樹高がおよそ150センチから200センチくらいに揃っているのだ。
なんでこの高さに平均されているのだろうか。
高すぎるのは砂嵐の影響を考えれば当然である。
彼らにとっては低ければ低いほどいいわけだ。
しかし低すぎるのもないのだ。
なんでだろうかなあと考えていて、ふと気がついたのが山羊と羊の身長であった。山羊と羊が幹に脚をかけて首を伸ばして、ギリギリ届くか届かないあたりが150センチなのである。
嫁に意見を聞いてみると、低すぎると地熱で暑いからじゃないかという。
確かにそれもあるのかもしれないなあ。
ベドウインにとって、あの木の木陰というのは、砂漠の中ではたいそう貴重なものだという。あのパサパサの木の横の広がりが作り出す陰に横になって昼寝することもあるそうだ。
過酷な環境での共存関係が、なかなか面白い。
 
 
昼飯は途中の食堂で、ちょうど阪口が食べたいと言っていたグルグルチキンが出てきた。イランのチキンよりも肉付きはよくないものの、塩で適度に味付けされていて、たいそうおいしかった。イランの脂っこいばかりで味のしない鶏肉に比べたら、天と地ほどの開きがある。
そうだよな。かつて十数年前にエジプトやヨルダンで食べたグルグルチキンもおいしかった記憶がある。
だからイランで食べたときには、ひどく落胆したのであった。
この日食べたチキンで、グルグルチキンに対する信頼が大いに回復した。
 
サナアに到着したのは午後四時。
今回もアルバトゥールホテルに投宿。
宿のオヤジは我々の顔を見るとニヤリと笑った。
車から荷物を降ろして、アミン氏とヤヒヤ氏にお礼を言う。
結局アミン氏のお宅には、お礼に50ドル渡し、ヤヒヤ氏には3000リアル渡した。
アミン氏は、羊の代金は要らないと言っていたのだが、それも含めて渡した。
ヤヒヤ氏は心なしか目が潤んでいたような気がしたが、アミンさんの方は淡々としたもので、50ドルに対するお礼の言葉ももちろんなかった。
「今度実家に帰ったときに渡しておくよ」
それだけであった。
アラブの人々が「シュクラン」(ありがとう)を意味する言葉を滅多に口にしないという話はよく聞くことだ。モンゴルでも、よっぽどのことをしてもらわない限り、お礼の言葉を述べることはない。
それは逆に言うと、礼も言わない代わりに、礼も期待しないという特殊な共存関係があったことによるのだろう。
一方的な依存関係というのは、砂漠の中ではあり得ず、自分も世話になるときが必ず来るのだから、お互い様なのである。
しかし一方でアミン氏の、
「ああそう。くれるんならもらっておくよ」
という感じの、あまり感謝の気持ちも感じられない態度というのも、我々にとっては確かに物足りないのであった。
アラブの人々が、身内に対して非常に親密である代わりに、他人は常に搾取の対象であり、憐憫のかけらもかけないという本多勝一氏の「略奪文化」という言葉が思い出される。
そこまでシビアなものでなくても、アミン氏の我々に対する若干酷薄な態度の根底には、そういう思想があるのかもしれない。
 
とにかく風呂に入りたい。
ツアーに出てから初日と二日目以降、まともに身体を洗っていないのだ。
部屋に落ち着く間もなく、熱いシャワーを浴びる。
ようやく人間に戻った気になった。
阪口は家人に遠慮して石鹸すら一度も使わなかったらしい。
私と嫁は顔くらいは石鹸を使って洗っていた。
このあたりに、いつも「人力社」の軋轢が生じる。
取材先にどれだけ遠慮するか、その距離感が、私と阪口ではずいぶん違うのである。
 
五時半につるつるになった三人はスークに出かけた。
阪口の土産買いにつき合うのであった。
彼はジャンビーアとターバン、それに料理好きな奥さんに香辛料と、その他首飾りなどの民芸品を購入。
そのまま打ち上げに行こうということで、サナアでただ二カ所だけ酒を出すうちの一軒というコリアンレストランにタクシーを飛ばす。
運ちゃんもよく知らなかったようで、迷った末に辿り着いたコリアンレストランは、なんと休業であった。
この日は運悪く金曜日であったのだ。
私は相当に落ち込んだのだが、気を取り直してもう一軒の、そしてもう二度と行きたくなかったシェラトンの中華料理店に行くことにした(タクシー代1200リアル)。
 
この間食べたチャーハンと焼きそばはまずかったが、他の料理はまずまず。
缶ビールひとり三本とロゼワイン一本を注文し、お代は130ドルであった。
100ドルを太っ腹の阪口が出し、残りを私が出す。
もう少し安いレストランだったら、もっと豪遊できたはずなのだが、缶ビール一本840円では仕方がない。
それでも料理もおいしかったし、満足して店を出た。
帰りのタクシーは400リアル。
 
阪口は明日の朝十時のフライトである。
七時半にチェックアウトするというので、それにあわせて起きることにして、今晩はそれぞれ部屋に引き取る。
ベッドに倒れ込んで死んだように寝た。
午前十時過ぎくらいだったろうか。               
アミン氏の村でお世話になった人々……ばかりではなくて、たまたまそこにいた人もけっこういるんですが、ともあれ、大変お世話になりました。とても楽しい滞在となりました。どうもありがとうございます。